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【マリオ神父様の 福音のヒント】

〜ある日曜日のお説教から〜

(聴き取り・文字起こし/宣教委員会)

年間第19主日

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          第1朗読:知恵の書18:6-9

          第2朗読:ヘブライ人への手紙11:1-2、8-19

          福音朗読:ルカ12:32-48

     

今日の福音書(ルカ 12・32−48)に「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」という御言葉があります。確かに、最初は「小さな群れ」でした。弟子たちと一握りの信者たちでした。その群れが2000年経ってどれ位になったのか、インターネット上の数字ですが、全世界の人口が77億人、その中に、自分をキリスト教と思っている人達が32パーセント、つまり、24億人がキリスト信者と言われています。そしてこの日本では、カトリックだけではなく、全てのキリスト信者を合わせても、1パーセントにもなりません。未だに「小さな群れ」です。

キリストにとって一番大事なことは「神の国に属しているかどうか」です。たとえキリストと出会ったことがなくても、真実を求め、善を求め、正義を求めて、神の教えに従って生きる人は、たとえ洗礼を受けていなくても、神の国に属していて、キリスト信者でなくても救われます。そのような人が何人いるかは、インターネットで探しても出てきませんし、神にしかわかりませんが、統計上のキリスト信者の数より大きいでしょう。ひとりの信者が「それならば、正しく生き、真実を求めていれば、洗礼を受ける必要がないのでは?」と問いかけてきました。決してそういうことではありません。キリストと出会って、キリストを真実と認めたなら、洗礼を受けるべきです。真実・善・正義であるキリストの教えを人々に伝えるためです。

私たち日本の教会は「小さな群れ」ですが、キリストを通して神の国に人々を誘う使命を持っていれば、もう少し大きな群れになることでしょう。そのためにも頑張っていきましょう。

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復活節第3主日​

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            第1朗読:使徒言行録5:27b-32、40b-41

            第2朗読:黙示録5:11-14

            福音朗読:ヨハネ21:1-19

     

「イエス様は復活されて、何度も弟子たちの前に出現していますが、その共通点として、イエス様であることが分かりません。マグダラのマリアの前に現れた時、エマオに行く二人の弟子たちの前に現れた時などが例にあげられるでしょう。今日の朗読個所も同じです。漁に出て、一晩何も取れなかったペトロたちは、イエス様に、もう一度網を打つように言われ、たくさんの魚が獲れます。イエス様が生きておられた時の出来事と同じような出来事です。一緒に食事をしていても、イエス様であると感じながらも、不思議なことに顔は分からない。もし、今私たちの目の前に、イエス様が現れても、同じようにわからないでしょう。

ヨーロッパやアメリカでは、難民や移民の排斥問題が深刻です。イエス様は、「他人(ひと)が飢えていた時、喉が渇いていた時、また、裸だった時、その他人(ひと)を助けることは、私を助けてくれることだ」とおっしゃっています。つまり他人(ひと)にしたことは、私(イエス)にしたことであると。

南米からの難民に対して壁を作ろうという人々がいます。いろいろ問題はありますが、その人々も、その人をイエス様と思えば、少なくとも気持ちとして変わってくるのではないでしょうか。日々の人間関係もそうです。その人が自分にとって、イエス様だと思えば、考え方も話し方も違ってくるでしょう。それは簡単なことではありません。朝起きて、「今日、あの人達に会うんだなあ、あの人達はわたしにとってイエス様なのだ」と自分に言い聞かせれば、その接し方も変ってくるでしょう。

今日の福音書の後半で、イエス様は、「私を愛しているか」と三回お尋ねになります。なぜ三回だったのか、ペトロが「三回イエス様を否定した」ことに対してのお尋ねだという説があります。ここで私が思うのは、ペトロを自分の後継者のように思われていたイエス様が、「三年の間、私と一緒にいて、私の言ったことが分かったか」ではなく、「よく祈っているか」でもなく、「私を愛しているか」と尋ねられます。イエス様の教えたことを理解することも祈ることも大事ですが、最も大事なことは「わたし(イエス)を愛しているか」ということなのです。

他人(ひと)の中にイエス様をみることはむずかしいことですが、そういう気持ちで、その人のために祈り、愛に満ちた接し方ができるよう頑張っていきましょう。」

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               四旬節第3主日

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           第1朗読:出エジプト3:1-8a、13-15

           第2朗読:①コリント10:1-6、10-12

           福音朗読:ルカ13:1-9 

        

「イエス様の時代、新聞はありませんでしたが、何か事件が起こるとすぐに伝わっていました。それが今日の福音書の話です。詳しいことは書かれていませんが、一つは、神殿で、あるガリラヤ出身のユダヤ人たちが、ローマの支配に反抗したため、ローマの兵士がガリラヤ人を殺してしまったこと。もう一つは何年経ってかは不明ですが、同じエルサレムで、塔の下敷きになって死んでしまったことです。いずれも、当時のユダヤ人は、「人が何か奇怪なことや不幸なことに遭うと、その人、あるいはその先祖が罪を犯した」と思っていました。それに対して、イエス様は「そうではない。」と、はっきり言われました。但し「でも、あなたたちも自分の罪を悔い改めないと同じようになる」と付け加えられました。同じように、という意味は、物理的に殺されるとか下敷きになるということではなく、「自分の人生が、この世においても来世においても、不幸なものになりますよ」という意味だと思います。わたしはいつも思いますが、いわゆる「罰(バチ)が当たる」という考え方は、キリスト教ではないはずです。でも、人間は悪いことをすると、良心の呵責を感じます。それによって自動的に罰っせられていると思うのでしょう。

また、もう一つのたとえ話の中で、「そのイチジクの木が三年間実を結ばないので切り倒せ・・・」これは、ユダヤ人という民族に対してのたとえ話です。彼らはずっと昔から、モーゼの立法を持ち、救い主の約束を待ちました。しかし、その立法を守らず、イエスが来てからも、救い主であることを認めませんでした。「イチジクに葉っぱはあっても、実はなかった。」葉っぱは飾るためには良いでしょうが、イチジクの木は「果樹」ですから、当然実は実って欲しいものです。もし、このイチジクの木の主人が、私たちのところに来て「実があるかどうか」、つまり自分の人生において、「いいことをしたかどうか」を調べに来たならどう応えるでしょう。葉っぱだけ見せるのか。実をみせるのか。イエス様が、私たちに求めるものも同じです。自分たちの心に、神に対しても人に対しても、愛があるか、愛がないか、それをみられます。例えば祈りを唱える、ミサにあずかる、教会の行事に参加する、これらにおいて、もし愛がなければ、「葉っぱを見せる」ことになるのです。それでは決してイエス様は満足されないでしょう。イエス様の時代も私たちの時代も同じです。もしイエス様が私たちのところにいらっしゃったなら、葉っぱだけか、実もあるのか。両方あれば一番いいでしょう。実があって、葉っぱがあって、それこそ完全なイチジクの木の姿です。私たちもそのようになるよう、お互いのために祈りたいと思います。」

   

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年間第18主日

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           第1朗読:出エジプト16:2-4、12-15

           第2朗読:エフェソ4:17、20-24 

           福音朗読:ヨハネ6:24-35 

     

「パンを増やしてもらった大勢の人が御自分を探し当てたのに、イエス様は褒めるどころか、あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われました。イエス様を探す目的がずれていたのですね。日々の食べ物のために働くのですけれども、永遠に残るものを大切にして人生を過ごしてくださいということです。そして、そういう永遠の命の食べ物のために働くということは、つまり「神の業」とはイエズス様を信じるということだと弟子たちに言われました。私たちが教会に来たり、ミサに与ったりするときも、何より、キリストに一致したい、神に近づこうという気持ちであることが大事なことですね。」

 

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年間第19主日

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              第1朗読:列王記上19:4-8

              第2朗読:エフェソ4:30~5:2 

              福音朗読:ヨハネ6:41-51 

   
「第一朗読のエリヤのように、やはり長い人生の中で、「もう疲れた」と言いたくなることはあります。エリヤは、天使からパンと水をもらい、シナイ山への道のりを支えられました。キリスト信者にとっては、ご聖体がそのパンですが、このパンはイエス様であって、私たちの体の中に入って、命となって下さり、日常の生活というホレブ山への道行きを担ってくださることを意識したいものです。」

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