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【日本人とカトリック】

(2018年4月にイタリアのミラノから転入された、H.Yさんからの寄稿です)

「主との出会い」2020年12月

イタリアの大学で教えていた時は、学生一人ひとりの力や得意な勉強の仕方、性格に合わせて一人ずつ別の学習プログラムを作りました。卒論や修士論文の指導では、学生が選ぶテーマにつき合って一緒に勉強でした。イタリアでは日本専門の教師が足りませんから日本のそれぞれの分野の専門の先生などはいません。「差別について」「テレビコマーシャル日伊比較」「資生堂イタリアにおける日伊文化融合」「長野・トリノ冬季オリンピックの経済効果とレガシー比較」「江戸・東京・トリノのごみの処理」「日・欧・米ディズニ―ランド比較」「忠臣蔵と日本」「宝塚歌劇団」、「日本の食品衛生法」学生たちが選ぶテーマは実にさまざまで、専門教授がいる文学以外の修士論文はすべて指導教官を引き受けることになりました。

教えていて気がつきました。私たち日本人が外国のことを説明されてもピンとこないのと同じで、日本についてうまく説明するには、まずこちらが相手の歴史や文化、相手にとって当たり前であることをよく理解した上で、彼らの視点に立って説明しないと理解してもらえないということでした。そして忘れがちなのが、日本人である自分が当たり前だと思っていることをきちんと意識することです。当たり前だから説明しなくても分かるだろうと思うと説明が抜けてしまうのです。日本人の自分を分析して分かった上で説明しないとだめなのです。そして日本の自宅に戻って分かったことですが、これはなにも外国人相手だけのことではありませんでした。世代の違う自分の親であっても、別の人の思いを理解することは至難の業です。全く理解できないイタリア人の習性や日本人には考えられない彼らの行動を見ながら30年間日本について説明する奮闘をしたことは、本当にありがたい体験でした。

試行錯誤と失敗の連続でしたがそれはとても楽しくもありました。

イタリアでは2大学掛け持ちだった時期も含め、3大学で通算20年教鞭を取りましたが、大学院の日本学科全般を任されていたトリノ大学で8年目のことでした。鎌倉の母が歩行困難になり2年後には大学を辞職して介護のため帰国することを決心しました。ちょうどイタリア滞在が30年になろうとしていた時でした。そこで帰国を機に、それまでにイタリアについて得た知識をまとめて本を書くことにしました。地方分権やデザインから学校教育まで、日本の税金を使って日本の官公庁発注の調査を広くさせて頂いたので、得たさまざまな知識をほんの少しでもフィードバックしたいと思ったのです。けれども、カトリックを知らずしてイタリアやイタリア人を語るわけにはいきません。そこで決心をして、30年間避けていたカトリックを間近で観察することにしました。家から一番近い教会の朝ミサに毎朝参加することからはじめ、2年間可能な限りすべての行事に参加し教会コミュニティを体験しました。

もちろん神父様には初めから、イタリアについて本を書くため、イタリア人についてよく知るために教会生活に参加させて頂きたい旨お願いしました。だから信仰を求めて教会に通ったのではなく、イタリアについて本を書くため、イタリア人の宗教を観察するためだったのです。

個人的には生きる指針として道元を心に留めていたと書きましたが、仏教を信じていたというわけでもありませんでした。仕事はやりがいがありましたし、自分の生き方に疑問もなく、カトリック信者になるつもりはなかったのです。ただ先入観はもたずに白紙の状態で、全身全霊向き合ってみるつもりでした。その時観察したことは本に書きました。『しがらみ社会の人間力』新曜社です。ご興味がおありの方はお読みいただければ幸いです。

主はかけがえのない貴重な機会をお与えくださいました。 神に感謝 

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「教育というもの(6)」2020年9月

 前回ご紹介した論文試験の続きですが、イタリアの学校に行くと、自分の成績が学年のどの位置にランク付けされるのかという発想がほとんどありません。全体の中での成績の位置づけという発想が、日本と比べてまるで希薄なのです。同じ学校でも先生が違えば教科書が違うことはもうご紹介しましたが、こういう教育では、評価のし方も当然、先生によって全く違い、極端な話、正反対の評価をされることが、よくあることなのです。

 

 論文の採点が「先生次第、運しだいで大きく左右されるのは問題じゃないか」と思いました。ところが、彼らに言わせれば「社会では、一人として同じ人間はいないのだから、それぞれの先生が良識に従って評価をするのは全く自然だ。100人いれば100通りの評価があっても普通だ。」なのです。一人ひとりの違う“ものさし”で測られるのは、社会生活の中で全員が常に遭遇するあたりまえの条件だ。という考えなのです。だから、論文の採点をイタリア中の先生たちがして、性格、国語の能力、文章の好み、その日の虫のいどころ、厳しさなど、すべての条件が違っていることが明らかであっても、そうした採点のし方になんの問題も感じず、当然だと思っているのです。現にイタリアでは、南部の先生の評価は一般に甘く高い得点が出やすく、北部の先生の評価は厳しく、出てくる点数が辛いことがよく知られているのです。それでもほとんど誰も本気で文句は言わないのです。世の中はそんなものだと彼らは受け止めているようなのです。

 

 けれども、考えてみれば学生たちは日本でも、社会人となるための最初の関門、入社試験に臨む段階になったとたん、ある意味、イタリア式と全く同じ状況に置かれています。

 各社の採用方針、思惑、採用担当者の性格、価値観、なにを大事と考えるのか、その日の気分などにより、その都度まったく違う状況を強いられ、同じ企業でも採用担当者によってぜんぜん評価が違う場合がありうる状況に、現におかれているのです。

 採用試験を公平に、全国一斉の共通試験にしようなどとはだれも考えません。それぞれの企業の専門性、カラー、考え方、欲しい人材は違い、共通試験などまったく役に立たないので、誰もそんなことは考えないわけです。イタリアの場合には、企業だけでなく社会のニーズもいろいろで、さまざまな人間が必要だ。人間自体、全員が違うのだから、共通試験であっても、特に作文のような課題は、学生の数だけ違うものができるのが当たり前。その評価も、厳密に公正な物差しなど存在せず、またその必要もないではないか、そんなことをしてなんの役に立つのか。社会生活の中で、そんな場面はどこにも存在しないじゃないか」と思っているので、幸運、不運も含め、少しもおかしいとは考えないのです。

 

 日本の作文では、そぎ落として推敲を重ねること、縮めることがとても重要です。「次の文章を読んで要旨を100字以内にまとめなさい。」という総括の練習も小学校からよくさせられる練習です。ところが、イタリアの小学校では膨らませる練習、つけ足す練習がよくある練習です。例えば、「昔、ある村に足の悪い兄と仲の良い妹が住んでいました」続きを自由に考えてお話を作りなさい。次の五つの言葉「信号、水泳、ホッチキス、赤ちゃん、鏡」を使ってお話を作りなさいなど。一人ひとりの自由な発想を伸ばす練習、一人ひとりの個性を膨らます練習です。評価のしかたも全員が違って当たり前の世界は、常にどんな評価もあり得るので、結果として悪い評価に絶望することのない世界でした。

 豊かなバラエティを持つ人間をおつくりになった神に感謝。

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「教育というもの(5)」

 

 現在行われているセンター試験に代わって2021年から導入される大学入学共通テストには初めて、記述式の問題を加えることが決まったようです。

日本では、採点がすばやくできること、評価が公平であることを重視して、全国一斉に行われるような大規模な試験の場合には、ごく最近まで、記述式のテストは用いられず、ほとんどがマークシート方式だったことは、よく知られています。

「記述式のテストは、客観的な評価がとても難しい」というのが、先生方共通の意見のようです。今回の改革で導入される試験の場合でも、記述式とは言うものの、他の形式の問題の中に、80字から120字ほどの記述をする問題がいくつか含まれ、正解、不正解が問われる形のようです。それでもマークシート方式よりもずっと採点に手間取ることや、結果の通知を出すのが遅れることなどが、懸念されているようです。

 イタリアでは、日本のこの共通試験に似ているのが、全国共通の高校卒業資格試験です。この試験でメインとなる試験は、国語(イタリア語)の論文執筆試験です。試験は全国一斉に、朝9時から午後3時までの6時間をかけておこなわれて、広辞苑のようなイタリア語辞典と素早く適当な言葉を見つけるために役立つ類語辞典の持ち込みが許可されています。試験が長時間に渡るため、スナック菓子や飲み物の持ち込みも認められています。

 7つの課題の中から各自好きなテーマを選んで論文と取り組むのですが、文法的な正確さはもちろんのこと、論文全体の構想力、論旨の展開力、全体の趣旨の一貫性、文章の流れのよどみのなさ、文章スタイルの一貫性、語彙の豊富さ、テーマを展開するために必要なさまざまな文化的、歴史的な知識の幅広さ・正確さ、テーマ自体の分析がきちんと提示できているか、テーマに関わる問題点が示されているか、などが評価のポイントで、さらに、自分の意見がきちんと展開できているかどうかの独自性が評価されるのです。

 単なる正解・不正解の採点ではなく、正にイタリア語を駆使する力、文章力が試され、一人ひとりが今までに学校で学んだすべての知識を使う力、考える力が詳細に評価されるのです。まさに“記述式”と呼ばれるにふさわしい内容なのではないでしょうか。

 けれども最初にこれを聞いた時は、テーマもばらばらの選択になる超長文の試験、国内の高校生全員が卒業前に受ける試験です。いったいどうやって膨大な論文の採点ができるのか、どうやったら公平な評価ができるのかと不思議に思いました。

 採点は、最新のコンピューターシステムなどではなく、イタリア中の国語の先生が総動員されて、手分けして論文を読んで評価をするという人海戦術なのです。ご紹介したように、どんな点について採点をするかのガイドラインは、イタリアの文部科学省から出されているのですが、判断はそれぞれの先生に完全に一任されています。それぞれの先生が専門家としての良識に従って判断する評価に全面的にゆだねられているのです。

 多くのイタリア人にとってこの高校卒業資格試験は、人生の最初に立ちはだかる大きな試練です。そんな大事な試験が、公平な評価の保証のない採点システムでよいのかどうか、という意見もあるかもしれません。けれども日本のマークシート方式の方も、それぞれの受験者の国語の能力を正確に評価できているのかといえば、これもまたむずかしい問題です。どんなことでも私たちの評価が完璧であることはあり得ないのだと思います。一人ひとりに最もふさわしい評価は、主がお考えくださるはずです。神に感謝。   

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「神父様への手紙」2019年12月

 神父様、毎回いろいろなテーマで書かせて頂いておりますが、なぜ自分の信仰体験を書かないのかと、いぶかしく思われていらっしゃることと思います。けれども、私にとっては、すべてが神と直接関係があるのです。イタリアに行って強く感じた“日本人の自分とは全く違う人間が存在していた!”という驚きは、ある意味、神の存在への驚きの始まりでした。それは日本にいた時には想像もつかなかったことでした。漠然と「人間皆同じ、人間皆分かりあえる」と思っていた自分にとって、イタリアはまさに驚きの連続でした。同じでない人間、全く分かり合えない人間がなんとか共存している世界が目の前にありました。もしかするとイタリアでいろいろな体験をしながら、私の中で何かが少しずつ育っていたのかもしれませんが、当時は全く自覚がなく、お願いするまで洗礼を受ける気はまったくありませんでしたし、カトリック信者になりたいと思ったことは一度もなかったのです。

 ミラノの神父様にお願いして、2年間ほぼ毎朝教会に通い、行事にもできる限り参加しました。カトリックコミュニティにはとても感銘を受けましたが、キリストは全く信じられませんでしたし、信じたいと思ったこともなく、改めて日本人には仏教の方が向いていると思っていました。ところがある日突然、確かに主がおられることが分かり、受洗を当然と感じたのでご意志に従いました。ただ、それが日本語で“信仰”とよばれる状態なのかどうかすらよく分からないのです。私の場合“信じる”という感じはまったくなく、しいて言えば、主がいきなりふところに入れてくださったという感じなのです。

 主はおられます。私にとっては自分が信じようが信じまいが、疑問の余地が全くない自明のことなのです。主はいらっしゃり、主に生かされ、主を全く知らない人に愛を語りたい思いがあります。お話し

した、今準備をしている介護の本もテーマは愛です。日本語では「愛」という言葉はわざとらしく、聞くとしらけるので使いませんが、介護の描写を通じて愛を語りたいのです。与えて頂いた「書く」とい

う行為を通じて、精一杯愛を語りたいと思っています。「つたない筆にどうかお力をお与えください」といつもお願いしますが、私にはそうするのが自然で、主はいつも共にいてくださり、“信じる”という感じはよく分からないのです。目の前に本があれば、「本がある」とは言いますが、「本を信じる」、

「本があることを信じる」とは言わないのではないでしょうか。

 そのある日突然の経験は、ある意味、聖パウロの経験とタイプの似た経験でした。私の主への思いは、すべて主から頂いたものです。その瞬間まで主の存在を全く信じていませんでしたし、信じたいとも思っていませんでした。次の瞬間、確かに主がおられることを確認し、主の御心に従いたいと切望したのです。回心は全く私の意志ではありませんでした。自分でもよく分からない信じられない体験なので聞く人も信じられないだろうと思います。特に、信者でない人にとっては、ただの荒唐無稽な話だと思うのです(ホームページは信者以外も目にしますから、それはとても残念なことです)。一回の原稿では、うまくお話しできそうもありません。三回に分けて少しずつ状況を書きながら、いろいろな経験の話を折りまぜながら、私という人間がどんなことを考えていた人間なのかを知って頂き、自然にお話できる形にして書かせていただきたいと思います。かならず書きます。もう少しお時間を頂きたいと思います。主のお導きとお恵みがありますように。

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教育というもの(4)」2019年11月

 

 学生時代、社交ダンスを少し習いました。3つの教室に通ってワルツ、タンゴなどのスタンダード系、チャチャチャ、ルンバなどのラテン系と一通り習ったのですが、どこのスクールでも教え方は、一連のステップパターンの習得でした。いろいろなステップが組み込まれた一連の足の動きのパターンが与えられて、何回かのレッスンを通じて全体の動きを覚え、そのパターンが繰り返しよどみなく踊れるように練習を重ねました。たった3つの教室での経験です。一概には言えませんが、教え方は皆同じでした。

 一種類のダンスにつき10回ほどレッスンを受けると、なんとかスムーズにその一連の動きができるようになり、結構ダンスが上手になった気分で、一応“らしく”踊ることができるようになるのです。ところが機会があってダンスパーティーに行ってみると、全く踊れない自分がいました。習った一連の動き通りなら踊ることはできても、ステップが違う順番になったとたん応用が利かず、身体が相手に反応できず、戸惑ってしまったのです。そこで納得できず3つも教室を転々としたわけなのですが、教え方は皆同じでした。結局、自分の運動神経が鈍いのだとあきらめ、そのうちにダンスはしなくなりましたが、決まった一連の動きの再現だけではない、相手に合わせる臨機応変を必要とするダンスには、別の訓練も必要な気がしたものでした。

 ところが、ミラノ大学の学生だった頃、友達といっしょにダンス教室に通う機会がありました。運動不足だったので、よい運動になると思って参加したのですが、そこで全く違う教え方に出会いました。そのダンス教室では、毎回のレッスンで、たった1つのステップしか教えてくれないのです。はじめはなんと単調で面白くないと思いましたが、その1つのステップを繰り返し2時間練習しました。2回目に行くと、別の1つを教えられて、そのステップと前のステップを組み合わせて、2種類がどんな順序で来てもスムーズに踊れるように2時間繰り返し練習をさせられました。

 こうして、レッスン毎に、1つずつステップが追加されていき、その都度どんな順番でも完全にスムーズに踊れるように練習させられたのです。10回目のレッスンが終わる頃には、日本で習った一連のダンスに含まれていたステップの大半を教わりましたが、違いは、どんな順番でステップが組み合わされても、スムーズに対応できるようになっていたところでした。教え方にとても興味がわき、イタリアにいる間に折を見て、日本と同じように3つの違うダンス教室に行きました。たった3つです。一概には言えませんが、少なくともこの3つの教室の教え方は同じでした。競技ダンスではない、趣味のダンスの場合には、臨機応変にすばやく相手に合わせて踊れることが不可欠です。この目的のためには、イタリア方式の方が現実の場面に近く、効果的なのかもしれません。

 そこで思い出したのが、幼いころ習っていたクラッシックバレーのレッスンです。あの華麗に見える「白鳥の湖」も、実は一つ一つの基本動作の単調な徹底的な繰り返し、マスターした基本動作のいろいろな組み合わせで成り立っています。一方、日本舞踊の習得の仕方は、どちらかといえば、決まっている一連の動きを流れの中で完璧に美しく再現し、一曲を極めながら、曲を増やす方式だと思います。教え方は1つではないのです。

 主の教えもきっと、主がそれぞれの人のおかれた状況にふさわしい教え方を選んでくださっているのだろうと信じています。 神に感謝。

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「ラッシュアワーと行列」2019年10月

 

ミラノで通っていた教会は、1800人ほど入る教会で、日曜日には9時、10時15分、11時30分、18時と4回ミサが行われ、毎回8割ほどはいっぱいになっていました。他の教会でミサに与かる機会もありましたが、人数が多いからでしょうか、参加したすべてのミサで、聖体拝領の時は、必ず一番後ろの席の人から頂き、一番前の席の人が最後に頂いて最前列の席に戻ると、ミサの進行が途切れることなくスムーズに続けられる方式だったので、なるほどと感心したものでした。

日本で初めてミサに与かった時、日本語のお祈りの言葉もまったく知らず、しかも、ミラノの教会の典礼は、ローマ典礼とは違う、アンブロジアーナ典礼と呼ばれる別の方式だったこともあって、何も分からずに、ただただ皆様のなさることを眺めておりました。

ところがその時たまたまお御堂の一番後ろの中央通路の脇の席に座ったため、聖体拝領の調べが流れ始めてしばらく、どなたも席を立たれなかった時は、パニックになりました。自分が立たなければ皆様が立たないのか、自分が最初に頂きに行かなくてはいけないのかと勘違いをして、慌てて前に進みましたが、後からこちらでは前の席から順番に頂くことが分かって、本当に冷や汗をかきました。

就任なさったばかりの大司教様が、ミラノ大聖堂ではじめて大切なミサをなさった時、さそわれて出かけたことがありました。当然たくさんの参列者が見込まれます。申し込みも入場整理券もないまま、果たして入ることができるのだろうかと半信半疑で出かけたのですが、行ってみると想像を絶する状況でした。整理券はなく、最前列に設置された神父様たちの席だけを残し、すべての椅子が取り払われた巨大な大聖堂の中は、ラッシュアワー時のすし詰め状態の様相で、周りの人とからだが密着して身動きもできないありさまだったのです。このような状況では、とてもご聖体を頂くことなど望めないと思いました。

ところが、典礼が進み聖体拝領の時になると、ミサに参加なさっていた大勢の神父さまたちが祭壇の下の中央へ粛々と集まりながら2列に合流して、自然に両側へと分かれてゆく人垣の中を、聖堂の一番後ろまで列を作ってゆっくりと進まれたかと思うと、そのまま2人ずつ背中合わせになって聖堂の左右を向きました。するとそれぞれの神父様の前にいた人の背中に、まるで磁石で突如列ができたかのように、壁際まで拝領の人の列ができ、そしてその列の右側には、壁際まで後向きの列ができて、大聖堂全体が、中央部から左右の壁に向かう、前向き、後ろ向き交互の人の列で埋め尽くされたのです。

こうして壁際でぐるりと輪につながっている拝領者たちの列が、聖堂中央部に並ばれた神父様たちの前に一人ずつ進んで拝領し後ろ向きの列に加わっていき、あっという間に全員の拝領が滞りなく終わったのです。神父様たちは一人ずつ静かに祭壇の方を向き、全員が前を向いたとたんに、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと前に引き上げ始め、聖堂の中は、神父様がいなくなった最後部から、また海水が戻っていくかのように、元のなんの秩序もない、ラッシュアワー時の混雑状態に戻っていったのです。

参加した人たちはそれを、まったく当たり前だという顔で受けとめ、誰一人驚いている様子の人はいませんでしたが、はじめてだった私は、ただただ感動してしまいました。

そしてなぜか、イエス様が、5000人の人たちにパンと魚を配ったシーンを思い出していました。

すてきな経験をさせていただきました。 神に感謝。

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「教育というもの(3)」2019年9月

 

 なぜ日本では学歴が重視されたのでしょうか。江戸時代の日本には身分制度がありましたから、学歴重視の強い傾向はまず、幕末から明治維新の特殊な事情に大きくかかわっていたと思います。この時期日本はイギリス、フランス、アメリカなど当時の列強に植民地化される危険がありましたから、身分などとは言っていられず、緊急に国内の人材を大量に登用する必要がありました。これは世界的に見てとても珍しい特殊な状況なのです。

イタリアのようにほとんど生まれで社会的地位が決まってしまう国では、学歴による競争は起きません。以前は限られた層しか高等教育にアクセスできる条件もありませんでしたし、仮によい大学をよい成績で卒業しても、イタリアでは出世とはほとんど関係がなかったのです。日本でも生まれや身分を問わずに登用してもらえるような状況は、幕末まではまったく考えられなかったことで、時代の特殊な要請が、目覚ましい出世組を生み出しました。各村に一人ずつとは言わないまでも、隣村に一人ぐらいは噂にのぼるほどの出世をした人物がいたのだと思います。努力と勉強で実際に天井知らずの出世をした例が身近にあったことは、子供の学歴を重視させる傾向に拍車をかけたはずです。

そして戦後の復興期にも似たような条件がありました。戦争で多くの人材が失われた結果、様々な部門で緊急に人材を必要としましたから、家の職業や生まれに関わらず、勉強ができてよい大学を卒業しさえすれば、大きな出世のできる時代が確かにありました。こうして日本では努力を奨励し「やればできる」が共通の掛け声になったのだと思います。

今は少子化の時代ですから、選びさえしなければ新卒者全員が就職できる時代です。けれども、高学歴者の数があまりに増えましたから、勝ち組負け組という言葉ができた頃にはもう、よい大学を出ても全員が出世できるわけではなくなっていました。それでも「やればできる」との思いは、私たち日本人にはまだまだ根強いと思います。

カトリックのイタリアでは、神がそれぞれにふさわしい能力を与えてくださっていると考えますから、「やればできる」ではなく「やってできた子は、もともとできる力が与えられていたからできた」と考えます。努力できることも能力のうちなのです。「できる子はでき、できない子はやってもできない」との考えなのですから、日本人としてはあまりに身もふたもない話です。もちろん努力をすれば、その子なりには伸びますが、同じ努力をしたらやはり差は出ます。その現実に目を背けての強要は子供に必要以上のストレスをかけると考えます。性格も含め勉強に向いていない子には、むしろ別の得意なことをさせてそれを伸ばした方が、レベルの高い到達点に達して、より人の役に立つと考えます。

人の話を聞くのが上手な子、人の心をなごませるのが上手な子、手作業が好きな子、運動神経が発達した子、あらゆる事柄で向いている子向いていない子、得意な子不得意な子があります。人間社会にはさまざまな仕事がありますから、それぞれが自分の得意なことで貢献すればよく、皆が同じことをマスターする必要は全くないので、イタリアでは子供たち全員が本当にマイペースで、日本のような競争の空気がまったくないのです。

同じ学業にしても、几帳面な子、記憶力が優れた子、話が上手な子、細かい表作りが好きな子、新しいことを思いつくのが得意な子、問題を解くのが好きな子、総括が上手な子、作文の得意な子、いろいろな能力がありますから、苦手なことをできるようにする暇があったら、得意なことをできる限り伸ばさせよう、義務教育期間は得意なこと、好きなことを見つけさせようと考えます。日本人教師としてはイタリアの教育現場は、競争をする意識があまりにもなさすぎ、暖簾に腕押しでした。正直、努力をさせること、不得意なことに挑戦させることも大切ではないかと思ったものでした。ただ、こうした考えで国民すべてに教育を施し、現に先進国の一つとして成り立っている国があることを知ると、学業の結果だけで思い詰めずに済む気はしました。神に感謝。

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「教育というもの(2)」2019年8月

 

 なぜイタリアでは教育が人それぞれという考え方になったのでしょうか。「人はそれぞれ全く違う」という考えは、実は地中海沿岸では昔から当たり前の前提なのです。それはイタリア半島や地中海周辺で接触する人種や民族のバラエティを考えるとよく分かります。恐らくここは、聖書時代の昔から今まで世界で一番人種や民族のバラエティに富んだ地域だったと思います。キリストの生まれた時代は地中海全域をローマ帝国が支配していましたから、統一政権下、地中海の島づたいや河川を使って行き来が大きく発達していました。
ドナウ川流域やドナウ川が流れ込む黒海も地中海とつながっていましたから、その周辺のスラブ系民族や白系ロシア人、中近東のアジア系民族、イスラエル人やメソポタミアの民族、トルコ系民族、そしてアラブ系民族、地中海の海洋民族ギリシャ人、ナイル川流域やアフリカ大陸の黒人、イタリア半島やフランス、スペイン南部のラテン系民族、東欧系やゲルマン系民族、正にここは文字通り世界一の人種のるつぼなのです。
地中海の大西洋への出口、スペインとアフリカ大陸モロッコに挟まれたジブラルタル海峡の最短距離はたった14キロです。この海峡から中近東までの距離は、大雑把に日本列島二つ分です。地中海には3300以上の島がありますが、イタリアのシチリア島とアフリカ大陸の最短距離も大阪と四国の高松程度なのです。イタリア半島の長靴の踵とギリシャのあるバルカン半島との最短距離もたった20キロ、イスラエルから地中海沿岸や島づたいにギリシャを通過しイタリア半島に渡るのは、ギリシャ神話の昔から舟で可能だったわけですが、こんな狭い地域にこれほど違う人種や民族がひしめいている地中海の真ん中に横たわり、言葉も文化も違う雑多な民族が流れ着き住み着いたのがイタリア半島なのです。 
ここでは、信用できる相手と取引をするような贅沢は初めからあり得ません。ぜんぜん理解できない言葉を話す相手、文化も習慣もまったく違う相手、何をされるか分からない初めて見る相手と、身振り手振りで交渉し取引をするのが当たり前でした。イタリア人同士のDNA、北イタリア人と南イタリア人のDNAの違いは実際、ポルトガル人とハンガリー人のDNAの差よりも違いが大きいのです。今もボートピープルが溢れるイタリアは、同じ村に言葉がまったく違う別の民族や人種が流れ着き住み着き続けた半島なのです。
他人は自分とはぜんぜん違うもの、他人は自分の利益だけを考え危害を加える恐れがあるもの、他人は何をされるか分からないものという、人間が一人一人まったく違うのが現実である世界が、カトリックの教えの根底にある基本的な人間観だと思います。
 日本は島国です。日本人も東北人、関西人、九州人、沖縄人と違いはありますが、地中海の人々が経験した違いと比べれば微々たるものです。最近は外国人観光客や居住者が増えましたから、すぐお隣の中国人からして習慣が全く違うので、異文化の悲喜劇が起きていますが、「人間みな同じ」という考えや、「人間同士みな分かり合える」という仲良くする共生感は、地中海地方には初めからなじみのない考えなのです。ぜんぜん分かり合えない人間同士がなんとか戦争をせず、殺し合いをせずに共存するのがカトリックのいう共生です。こうした世界ではそもそもはじめから全員に同じ教育を施そうなどという考えは誰も持ったことがないのです。文化の差、言語の差、習慣の差、貧富の差、身分の差、能力の差、成長の差、性格の向き不向き全て、ここでは格差があるのが当たり前なのです。だからはじめからイタリアでは誰も格差をなくそうなどとは考えません。格差を前提としてものごとを考えます。教育も全員に同じことをマスターさせようとは誰も考えません。
地中海的経験の乏しい私たちは、違いを違ったまま認めることがつくづく下手だと思います。仲良くなった人に親切にするのではなく、全く理解できない相手、全く同意できない相手をそのまま祝福すること、そうした相手に手を差し伸べることは実に難しいです。けれども家族も含め、「一人一人全員がまったく違う」という考え方は、寛大になるためのよきヒントに使える気がしました。 神に感謝

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「教育というもの(1)」2019年7月

 

 イタリアに30年住んでいて日本と一番大きな違いを感じたのが、教育についての考え方でした。実際にベルディ音楽院やミラノ大学に学生として通い、3大学で教鞭をとってきましたが、教育については特に研究の機会をたくさん頂いたので、これから何回かに分けて少しお話ししてみたいと思います。日本の教育とイタリアの教育のどちらが良いかなどという話ではなく、教育についてこんなにも違う考え方があるのかと、びっくりするほどの違いなのです。そしてその根底には確かにカトリックがありました。まず最初にびっくりしたのが、近所の小学校の同学年で別のクラスに通っている近所の9歳の2人の男の子が、それぞれまったく違う教科書で勉強していたことでした。母親に聞いてみると、クラスの先生が違えば教科書が違うのは当たり前だとのことでした。同じ小学校の同学年にクラスが3つあって先生が3人いれば、その小学校の子供たちは、3通りの全く違う教科書揃えで勉強していたのです。しかも調べてみたら、その小学校だけの話ではなく、イタリア中で担当する先生が教科書を選ぶのが当たり前だったのです。「なぜ、同じ学校の同学年で、同じ教科書で教えないのか」と聞きましたら、「なぜ同じ教科書で教えなければいけないのか」と逆に聞かれてしまいました。「先生によってまったく能力も性格も違う。考え方が違い、教える方法も違う。実際に教えるのはその先生なのだから、たくさんある教科書の中から、よいと思う教科書、より使いやすいと思う教科書で教えるのが当たり前だ。教科書は先生によって違うのが当然だ」と言われました。

 EU市場の統合で、EU内であればどの国でも自分の国と同じように就職ができ、労働できるようにしたので、当然EU全体の資格の一本化が図られました。それぞれの国の学校制度が少しずつ修正されて、EU内共通の資格が定められ、それぞれの国のどの学年がどのEU資格レベルに相当するかが調査され決められました。だからイタリアの学校も以前よりEUの枠に合わせた形に変化しています。けれども教育に対する伝統的な考え方の多くは今でも受け継がれています。まず教育全体の流れのはっきりした設計です。初等教育(義務教育)では、ものごとを考えるシステム作り、中等教育では基本的な知識やデータの大量の蓄積、高等教育では選択した専門の知識や技能の習得です。留学した当時、小学校5年間、中学校3年間が義務教育期間だったのですが、イタリアの義務教育は、親が子供に8年間の教育を受けさせる義務であって、学業の到達点は問いませんでした。なによりも大切だったのが、それぞれの子供が将来、人間として一人で生きていくために必要な、自分の頭で考える力を徹底して育成することで、それに読み書きそろばんの習得が加えられているという感じでした。だから内容を統一するような教科書検定も行われていませんでしたし、教科書の内容は、ものの考え方を教えるための素材に過ぎないので、細かく統一しなければいけないとは全く考えられてはいなかったのです。それぞれの先生の腕の見せ所は、いかにして子供たちに、ものを考える習慣をつけさせるかであって、知識を習得させることではなかったのです。しかも乳幼児から小学校に入る年齢の子供は、それぞれの心身の成長の仕方やスピードが大きく違い、同じことを教えても理解できる子と理解できない子の差が大きく、格差があるのが当たり前だと皆が思っていますから、ついてこられない子供には、1年生を繰り返させました。小学校卒業の証書ではなく、確実に自分の頭で考える習慣が身に着くことを目標に各自の成長の状況に従って8年間が使われていたのです。小学校の各学年で落第をして2年ずつ繰り返し、小学校卒業前に8年間の義務教育期間が終わってしまうこともあり得ました。こうして教科書も先生も、教育の内容も習得状況も、学歴も、一人一人全員がぜんぜん違って当たり前の国のカトリックは、どんな人にも分け隔てのないまなざしを向けてくれるように感じました。 神に感謝。

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「スキンシップと信仰」2019年6月

 

 ロータリーの奨学金を頂いてミラノにオペラ留学をし、7つの不動産屋を回ってようやく見つけた賃貸マンションに入った頃は、周囲に外国人が誰もいなかったこともあり、ご近所のたくさんのイタリア人家族にかわいがってもらいました。その頃、音楽留学経験者の間では、ミラノはピアノや声楽の発声練習ができるアパートがほとんどなく、少しの練習でもすぐに近隣住民から文句が出るので、とても住みにくいと聞いていました。そこで、近所の人とのトラブルを避けるために、対策を講じることにしました。中庭を中心に四棟の7階建てマンションがぐるりと建つ場所だったのですが、私の部屋はその中庭に面した、1m半ほど床が高くなった一階だったので、部屋の窓の下に張り紙を出しました。「はじめまして、日本人のオペラ留学生です。練習でお邪魔をしますが、昼食、昼寝の時間帯はさけ、朝10時から12時、午後4時から6時に練習するように致しますので、どうか御辛抱のほどをお願い申し上げます。ありがとうございます」

その頃イタリアでは、そんなことをするイタリア人は一人もいなかったらしく、張り紙は「なんと礼儀正しい!」とご近所中で評判になり、遠くからわざわざ見に来る人までいたとは、ずいぶん何年も経ってから親しくなったイタリア人に聞いたことでした。張り紙の効果は絶大で、留学当初からその4棟のマンションの住民、三十以上の家族が、食べに来ないかと誘ってくれ、皆が「イローミ、イローミ(宏美)」(イタリア語ではHは発音せず最後から2番目を伸ばす)と親切にしてくれました。近所の八百屋さんなどは、買い物に行って挨拶をしたその三日後の日曜日から「一人じゃ寂しいだろうから毎週日曜日の昼は食べにおいで」と言ってくれ、実の娘のようにかわいがってくれました。夜はよくテレビを見ながら、一緒に編み物をして過ごしたものでした。野菜や果物を奨学金だと毎回ただでくれてしまうことには、本当に恐縮をしたものでした。

 そのマンションの住民の子供たちが、私の姿を見ると皆走って集まってきて競争で一斉にキスをしたがるのには少々閉口しました。3歳から12歳くらいの子供たちが近所にたくさんいたのですが、毎回私を見かけるたびに、順番に抱きつかれキスをされ、チョコレートアイスでくわんくわんの顔など押しつけてくるのです。生まれたばかりの乳母車の赤ちゃんの扱われ方を見ていると、近所中の人が寄ってたかって抱き上げては大きな音を立てながら、ほっぺたにキスの嵐を浴びせています。傍から見ていて赤ちゃんの皮膚が炎症を起こすのではないかと心配になるほど、毎日ハグとキスぜめなのです。

 こうして育ったイタリア人の肉体感覚へのニーズは、日本人とはかけ離れたものです。イタリア人は、直接肌で感じる感触から受けとる情報に日本人よりもはるかに敏感で、目で見た情報からも、自分の肌感覚としてリアルに感じとることができるのです。これは日本人にはほとんどない感覚なので、身近で接するまで分からなかったことなのですが、イタリア人、地中海地方人の多くにとって十字架のキリスト像、十字架の血だらけのキリスト像は、犠牲になられた主の断末魔の痛みをリアルに伝え、肌感覚で受け取り納得する彼らにとっては、主の愛が直接伝わる表現なのです。そして彼らにとっては、それが全く普通の感じ方で、そうではない民族があることなど、頭の片隅にも浮かばないことなのです。

昨年の11月の「道しるべ」にマリオ神父様も、日本人に「十字架のキリスト像は気持ちが悪い」と言われ、そんなことは考えてみたこともなかったと書かれましたが、多くのイタリア人は主の痛みや愛をキリスト像を通して肌感覚でリアルに感じとることができる人たちなのです。日本人はいったいどうしたら同じ痛みと愛を自分のものとしてリアルに感じることができるのだろうかと、主に問いかける毎日です。 

神に感謝。

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「『⼩さな村の物語イタリア』とカトリック的⼈⽣観」2019年5月

 ご存知の⽅もいらっしゃるかと思いますが、⼟曜⽇の⼣⽅6時から6時54分まで、BS⽇テレで⽉に⼆回ほど放映されているドキュメンタリー番組「⼩さな村の物語イタリア」は、ひそかなファンが⾒逃さない⾧寿番組です。NHKも含め、今までに⽇本のテレビで⾒た全てのイタリア紹介番組の中で唯⼀、30年イタリアに住んでいた⽬から⾒ても、全く違和感のない番組で、⼈間としてのイタリア⼈、ありのままのイタリア⼈の⽇常⽣活、カトリックコミュニティの伝統に⽀えられたイタリア⼈の姿、⼈⽣観がそのまま、淡々と加⼯されずに紹介されている、とても貴重な番組です。母の介護でずっと⾧期に渡りイタリアに⾏くことができなかった時も、よくこの番組を⾒て癒されていました。毎回、北部アルプス⼭脈の⼭村から、北西部の港町ジェノヴァ近くの漁村、中部アペニン⼭脈の丘陵地帯の奥にひっそりとたたずむ⼩さな村、南部の名も知れない村、時には3万⼈程度の町の場合もあり ますが、たいていは村全体が⼀つの教会を中⼼に⼀つのカトリックコミュニティを形成しているような、⼩さな規模の村を取り上げて扱っています。 人口が⽇本の約半分のイタリアでは、100万⼈以上の都市は、ローマとミラノしかなく、⽇本では平成の時代にも、経済的基盤を⼤きくするために市町村合併で市の規模を⼤きくしてきましたが、イタリアでは逆で、なるべく近くで顔の⾒える⾏政サービスを提供できるように、ごく最近まで県や市を分割して⼩さくしていて、都会でも⽇本の市よりずっと規模が⼩さいことが普通です。「⼩さな村の物語」は、毎回取り上げた村に住む⼆つの家族に密着して、その家族の⽇常⽣活を淡々と描くだけの番組なのですが、ナレーションが程よく、インタビューに答える家族の⾔葉には毎回、カトリックの伝統に裏打ちされた⼈⽣観がにじみ出ています。(字幕の翻訳もクオリティが⾼く、適切にできています)家族の職業は、ありとあらゆる職種にわたり、役場の職員や勤め⼈から警官、パン屋、⼀度移民としてドイツに出稼ぎに⾏った後、村に戻ってカフェを開いた家族、鍛冶屋、⽺を飼う畜産農家、ブドウ農家、チーズ職⼈、弁護⼠、公証⼈、町から引っ越してきたサラリーマン家族、⼩さな⾷堂を営む家族、 ⾁屋、菓⼦屋、⽂房具屋、鉄道員、漁師、壁職⼈、パーマ屋、トラック運転⼿、中には⼤きなレストランやワイナリーのオーナーもいますが、さまざまな職業の家族の、素朴でありのままの姿が毎回密着取材され、⽇々の⽣活や⼈⽣を淡々と語る彼らの⾔葉には、彼らの⼈⽣観、彼らが全くの⾃然体で⽣きているカトリックの教えが、毎回にじみ出ています。⼈と⼈とのふれあい、隣⼈や家族との寄り添い、夫婦、親⼦、年⽼いた親への愛情深いまなざしなど、彼らの素朴な⽣き⽅には、毎回とても考えさせられるものがあります。イタリアの国営放送RAIの協⼒で実現している番組で、⽇本的発想の切り口や加⼯がすべて排除されているので、まさに“そうそう、イタリア⼈はこうだ”、という感じの番組です。時間のある⽅はご覧になってみてはいかがでしょうか。観光で訪れるイタリアとは⼀味違う、素顔の素朴なカトリックイタリア⼈が⾒られます。イタリアの教会では、誰かが亡くなると、朝のミサがお葬式に変わり、ある朝ミサに⾏ってみたらお葬式だったという感じです。朝ミサの常連信者と親族や知⼈たちが皆、普段着で参列して、お葬式が完全に⽇々のコミュニティ⽣活の⼀部として淡々と⽣きられています。もちろん有名⼈で、教会から溢れてしまうような参列者数が⾒込まれる場合には、特別に⽇時を定めて⾏われる例外もありますが、彼らのこの「⽣きている時も死んだ後もずっとこのコミュニティの⼀員であることは何も変わらない」という感覚や姿勢は、とても⼼安らぐ、深く印象に残るものでした。神に感謝。 

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「第7回 自立とルール(3)」2019年4月

 渡伊28年後、イタリア在住30年の節目に向けて、イタリアについて本を書き始めました。その一環で、いろいろなイタリア事情を掘り下げるうちに、イタリア人の電車の乗り方について、ご紹介した第二の解釈も片手落ちだったことに気づかされました。

 労働組合が西ヨーロッパ諸国で一番強力だったイタリアでは、特にカトリックの祭日や日曜日には、“仕事をするべきではない”という宗教的な大義名分もあり、当時、日曜日にまともに仕事をする鉄道員はほとんどいなかったのです。鉄道では切符も売らず、検札もしないのが普通だったのですが、実はこれには別の側面が確かに存在したそうです。

 国際特急以外の国内の一般の電車では、今も昔も日曜日の車内検札に出くわすことはまずありませんが、当時は特に切符が買えなかった貧しい庶民、週末に家に帰りたくても切符の買えない庶民に、電車やバスの運行サービスが無料で提供され続け、半ば意識的に放置されていた部分があったのだそうです。ここには営業利益の追求だけではない、別の発想、カトリック的な支え合い、連帯の発想、そしてやはりカトリックに大きな影響を受けた西側最大の労働組合の、最低限サービスの無料保証という考え方、公共交通機関の動かし方があったようなのです。経済性の追求、効率・合理性の追求だけではない独特の考え方がここからは垣間見られます。これが分かったのは、渡伊後28年目でした。

 しかも面白いのが、この“実験”を長期に渡って続けて得られた教育効果です。このほとんどコントロールなしの乗車システムを何十年も続けた結果どうなったかといいますと、イタリアの庶民は、切符がどうしても買えなかった時代はともかく、切符代が支払えるようになった時点からは、“切符をきちんと買って電車やバスに乗ること”を一人前の市民の証しとして誇りに感じたようです。モラルの問題というよりは、市民の自立意識と尊厳の問題として感じられたようです。規則破りのために規則を破りたい年齢の若者や、貧しい外国人移民を除けば、今もイタリア市民は、たまたま買い忘れたり、間に合わず飛び乗ったので切符が買えなかったような場合を除き、コントロールをされようがされまいが、大半が切符を買って乗っていると思います。

 これほどゆるやかなコントロール下にありながら、一般市民に決して無賃乗車が常態化していず、むしろ自主的に切符を買う習慣が育っているところが実に面白いと思いました。もしも改札口の検札機を全てなくし、コントロールをしなかったら、今の日本人は、どれほどの割合で切符を買うでしょうか。人間としての尊厳の自覚、市民としての誇りを教える教育をしなければ、モラルは本当には根づかないものなのかもしれない、とふと考えさせられました。

 外国について理解することは本当に難しいことです。統計データだけでは見えてこないことが実にたくさんあります。これは、30年イタリアに住んでも、まだまだ知らないことだらけのイタリアを前にして、実感として常に感じることです。

 日本では、車が全く通っていなくても横断歩道で信号待ちをしている人をよく見かけますが、「横断歩道と信号は、車が通る場所で事故が起きないように設けられている設備で、車が全くいない場合に信号を待つのはばかげている、各自が良識で判断して渡るのが正しい信号の利用の仕方で、規則を守るために規則を守るのは本末転倒だ」というイタリア人の友人がいました。信号の場合はともかく、カトリックの教えについても、勝手気ままな違反もダメ、かといって杓子定規もダメとなると、これは日々の自問自答のおつきあいをぜひとも主に御願いしなければと思う日々です。神に感謝

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「第6回 自立とルール(2)」2019年3月

 今から28年前、渡伊12年目、イタリアの鉄道について調査を委託される機会がありました。鉄道発展の歴史やデータを調べていて、イタリアの鉄道やバスは、切符の購入について「市民を“大人扱い”にしたわけではなかった」ことを発見しました。
もともと行きたい時に行きたい場所に、誰にも縛られず自由きままに移動をしたい、独立独歩のイタリア人は、自動車産業、フィアット社の目覚ましい発展と共に、国民こぞって車族になりました。日本人のように財産としてよく車の手入れをし、大事に乗るという感覚はなく、彼らにとっての車は移動のための“下駄”です。メカの部分はよく手入れをしていても車は汚れ放題です。きれいな車は目立つので盗難の確率が高まるという理由もあるのですが、近所のたばこ屋に行く時まで車を使う人が多く、町中違法駐車が溢れ、駐車場所探しで毎回30分も40分もかかるのが、ミラノのような都会では当たり前の風景です。こうして戦後の高度成長期からごく最近まで、イタリアでは基本的に、鉄道や公共交通機関は、車が買えない“貧しい人の乗り物”になってしまったのです。
ミラノボッコーニ大学という政財界に多くの人物を輩出している名門私立大学で教鞭を取っていた頃のことです。クラスの16名の学生の内、なんと9名がミラノ市内のバスや地下鉄、国鉄や民営鉄道も含め、公共交通機関には生まれてから一度も乗ったことがないというので唖然としたことがありました。知ってはいましたが、これほどまでとは思いませんでした。東京の大学に通う大学生で、生まれてから一度も公共交通機関を使ったことがないというのは、あり得ない話だと思います。
今は超デラックスなビジネスクラス、ファーストクラスがある国際特急もあります。ドリンクやスナックが配られ、コンセントが各席にあり自由にネットが使えるので、ビジネスマンや、いくつもの大学を掛け持ちしている大学の先生たちがよく利用し、仕事場と化しています。けれども当時は切符を高くしては、利用者が全くいなくなりましたから、切符はできるかぎり安くし、営業コストを極力抑えました。サービスの質は劣悪で、電車はいつも汚れ放題、治安が悪く、厳しい検札など、コントロール機器の導入コストや人件費を考えたら最初から採算が合わず、現実的ではないので捨て置かれたらしいのです。
鉄道は前世紀に新しく導入されたものでしたからイタリア人にとって鉄道の駅のイメージは、教会がある町の中心部から外れた場末にあり、浮浪者がたむろする治安の悪い場所でした。金沢に語学研修に来ているトリノ大学の学生が、駅からイタリアの自宅に国際電話をかけ、JR金沢駅からかけていると言うと「そんな危険な場所から電話をかけるのはすぐにやめなさい」と親にしかられたものでした。
こういう事情が分かった時は、ずいぶん見当違いの解釈をして感心していたものだと思いました。人は無意識に自分の物差しで外国を見ますから、とんでもない勘違いをすることがあるものです。しかも、これはたまたま調査をしたから分かったことで、ただ住んでいるだけでは全く分からなかったかもしれないのです。ところが、それから16年後、イタリアについて本を書く一環で、いろいろなことをさらに詳しく調べていましたら、またまたその第二の解釈も中途半端だったことを発見したのです。(次回につづく)
環境の物差しが全く違う日本人にとって、地中海地方で生まれ育ったカトリックを理解することは至難の業です。けれどもそれは100年前の日本の理解も、東京人にとっての大阪の理解、沖縄の理解も同じです。聖書を読む時はできる限り想像力を働かせ、先入観が邪魔をしないように柔軟でいたいと心から思った次第です。
神に感謝。

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「第5回 自立とルール(1)」2019年2月

 イタリアに留学したばかりの40年前、まず感心したのがイタリアの電車やバスの乗り方でした。その頃イタリアでは、各自が自主的に切符を買って乗るだけで、基本的に切符のコントロールがほとんどなかったのです。地下鉄には一応、改札口らしき仕切りはありましたが職員がいないことも多く、自由に出入りできる状態でしたし、鉄道の駅に至っては、「改札口」という概念すらなかったのです。東京駅や新宿駅で一切改札口なしの状態を想像してみてください。改札口と、切符のコントロールに慣れきった人間にとっては、妙に不安で落ち着かない検札器で各自が切符に時刻スタンプを押したり、自分で切符に時刻を書いたりして電車にのり、車内では検札が来たり来なかったり、地下鉄も含め、降りた駅の出口コントロールは一切ありませんでした。そして今年行ったらテロ対策で、ローマやミラノのような大きな駅では乗る前に検札が行われ、車内検札は来たり来なかったりでしたが、出口は相変わらずフリー、地下鉄も主要駅だけは出入りに時刻スタンプの検札器が設けられていましたが、バスや市電は以前のままでした。
 40年前といえば日本では、通勤や通学の定期券を利用して、「キセル」という無賃乗車行為が横行していた時代でしたから、マフィアの国イタリアでコントロールなしでは、さぞかし違反が多いだろうから、経営が成り立たないだろうと思ったものでした。
 バスや市電も、あらかじめキオスクなどで各自切符を買っておいて、車内備え付けの器械で、75分有効の切符に自主的に時刻スタンプを押すだけなのです。運転手は、全く知らぬふり、乗る時も降りる時も、切符のコントロールが一切ないのです。たまに抜き打ちで、バス停などで一斉取り締まりがあるにはあるのですが、ほとんど毎日大学に通っていた頃も、せいぜい年に2~3回しかコントロールに出くわすことがなく、しかも、出会ったコントロールで捕まっている違反者が極わずかであるのには心底驚きました。
 当時、この状況を眺めながら、もしも日本でイタリアのように、一切コントロールがなかったら、日本人は果たしてちゃんと切符を買うだろうか、と考えてしまいました。
 というのも、ある大手商社のミラノ駐在員が、赴任した日に先輩から「イタリアでは切符のコントロールがほとんどないから、ずっと無賃乗車をして捕まった時に罰金を払うのが一番安上がりでいいよ」と教えられ、さっそく次の日に実行したら、とたんに捕まって50円のところ7000円の罰金を払わされ、それからは切符を買うようにしたと言うので笑ってしまったのですが、それにしても、お金に困っているわけでもない大手商社の立派な肩書の人が、先輩に言われたからとこうした振る舞いを現にするわけですから、日本人には「無賃乗車は悪いことだ」という考えが根づいているわけではなさそうでした。
 イタリアのように市民を“大人扱い”にして、バスや電車に乗る時には“自主的に切符を買って乗ること”を前提にできる社会と、違反が限りなく不可能に近い厳格なシステムを作ることで“違反をする気”を殺ぎ、徹底して規則に“従わせている”社会の違いを思わされて、当時イタリアをなんと素晴らしい国だろうと思ったのですが、これは大いなる誤解でした。(次回につづく)あの時は善悪の指針を自分の中に持つことの意味をつくづく考えさせられました。「人に見られると恥ずかしいから違反はしない」という態度や「右に倣えで皆と同じに寄付をしておく」というのも、自分で自覚して行動するのとは少し違うと、主の教えに従うことについても、はっきり自分は自覚できているのだろうかと反省しきりです。神に感謝。

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「第4回 小さな親切運動」2019年1月

 小学生の頃だったでしょうか、覚えていらっしゃる方もあるかと思いますが、「小さな親切運動」というのが流行ったことがありました。1963年、東大総長だった茅誠司先生が、卒業生への告辞で「大学で学んだ様々な知識や教養を、ただ頭の中に百科事典のように蓄えておくだけでは立派な社会人とはなれません。その教養を社会人としての生活の中に生かしていくには、やろうとすれば誰でもできる“小さな親切”を絶えず行っていくことが大切です。“小さな親切”はバラバラな知識を融合させる粘着剤の役目を果たすのです」とおっしゃったことがきっかけとなって興った運動で、当時はちょっとしたブームになりました。戦後の復興から東京オリンピックへと向かう、希望あふれる時代を生きたある年齢以上の人には、この運動に共感を覚え、人に親切にする教えを心にとどめ、それを子供にも伝えた世代が確実にあったのだと思います。
 ですから、少なくともその世代とその次の世代にとっては、カトリックの教えは、ある意味、ごく当たり前のことだったのではないでしょうか。マリオ神父様も道が分からなくて困った時、三人の日本人に親切にされた話をなさっていらっしゃいましたが、この日本人の親切さは、残念ながら日本人を教会に近づけるのではなく、逆に遠ざけてしまったような気がします。親切ならば“ごく普通のこと”でしたから、「キリスト教信者になる必要は特にない」と考えられても不思議はなかったと思います。
 ところが、悲惨な殺し合いの歴史を持ち、親切などぜんぜん考えてこなかった地中海地方の人々にとっては、「家族と友人以外を見たら泥棒と思え」を旨とするイタリア半島の住人にとっては、なんの得にもならないのに人に親切にすることは、まったく考えられない行為、むしろおろかな行為だったのです。イタリア人にとっての無償の親切は、「神がその人を動かして親切をさせた」としか思えない“特別のできごと”だったのです。だから他人の親切の背後に、しばしば「神の御手」を感じることができたようなのです。
 ミラノでよく経験したことです。地下鉄の駅で電車を待っているとイタリア人からよく「次の電車はドゥオーモ(大聖堂)へ行くか」と聞かれました。他に人がいないわけではなく、近くにイタリア人がたくさんいるのです。それなのに人をかき分けて、わざわざ外国人である私のところまで来て聞くのです。不審に思って友達に「なぜわざわざ私に」と聞きましたら、「イタリア人の言うことなんか信用できないからよ。あなたなら外国人だし、観光客でもなさそうだから、きっと信用できそうに見えたのよ」と言われました。
 拙著にもインタビューを載せましたが、朝教会でよく会うミラノ工科大学で航空工学を学ぶ男子学生に、どういうきっかけで本気で信仰に近づこうと思ったのかと聞いたら、「熱心な信者である親しい友達が、文房具を安く売る大学の学生生協で、毎日無償で働く奉仕をしているのを知った。自分にはまったく考えられない行為だったので本当にたまげてしまい、その時初めて、子供の時に教わった神が本当に存在する証しを見せつけられた思いがして、中学以来遠ざかっていた教会にまた通うようになった。今は卒論を提出し終えて暇だから、自分も生協の手伝いをしている」と語ってくれました。
 人の親切をこんな風に受けとめる感受性を全く持ちあわせていない日本人にとっては、主がお教えになる親切を真に理解することはある意味難しいことだと改めて思いました。何のお返しも期待せず、おろかな行為であるとさえ思われ、褒められることも御礼を言われることも期待せず、良いことをしてあげた優越感にも浸らず、お返しをしなければいけないとも気をもまず、主の御心のまま手を差し伸べること、人の好意を素直に受け入れることのむずかしさを心から思います。
神に感謝。

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「第3回 ミサと置き引き」2018年12月

 8年ぶりでイタリアに戻り、6月半ばから一カ月弱以前通っていたミラノの聖イグナチオ教会の毎朝のミサに参加してきました。6月はイタリアでは既に小学校が夏休みに入っている時期です。久しぶりの古巣の教会は、共働きの親たちが預けた子供たち、サマースクールの子供たちで溢れかえっていました。今年は280名の小学生が参加していました。12人の高校生がグループリーダーとして世話を焼き、12人のベテラン信者がそのサポートをしていました。毎日プールやハイキング、屋外でのゲーム遊び、美術館や工場見学、コンサートや映画鑑賞、山にキャンプに出かけたりして楽しく過ごします。お御堂の中央席前列は、カラフルな小学生でいっぱいでした。
 中には毎年サマースクールの企画プロジェクトをコンペで募集して応募で勝った大学生グループに運営を任せている教会もあります。教会員たちは皆、一人ひとりの傷害保険の手続きやら、消防署や市への届け出、食事やおやつの調達など、様々な手配で大忙しでした。秋が新学期ですからイタリアの夏休みには宿題というものがありません。子供たちにはまるまる3か月半夏休みがあるのです。1か月は教会のサマースクール、1か月は市が運営する各小学校で開催されるサマースクール、20日から1か月間は親と一緒に海や山に出かけ、残りは自宅で過ごすというのがよく見られる光景です。そうでなければ、あまりに長すぎる夏休み、共働きの親はたちまち困ってしまいます。市と教会の間ではよく話し合いがなされていて、サマースクールの時期などが重ならないよう工夫されています。
 4月から由比ガ浜教会のミサにあずかり、久しぶりにミラノの教会のミサに参加してみて、つまらないことに気がつきました。それは、聖体拝領の時、鎌倉では皆ハンドバッグを席に置きっぱなしで列に並んでいますが、イタリアでは必ずハンドバッグをしっかり握りしめて並んでいることでした。「教会でも人を信用しないのか」と笑って友達にきいてみると、「個人の持ち物の管理は、絶対に間違いが起きないように各自がきちんと責任を持つのが当たり前。誰も嫌な思いをしないためにも、人に出来心を起こさせないためにも、バッグは常に持ち歩くのが当たり前だ」と言われました。
 日本にやってくるイタリア人の学生たちも、花火大会などで日本人がジュースを買いに行く時など、あまりに無防備に身の回り品を置いて買いに行くのを見てたまげ、「日本はなんと安全でよい国なのだろう」とため息をつきます。この頃は盗難が増えて安全でなくなり、夜道も物騒になったとはいえ、日本では夜、通勤電車に乗ると、酔っぱらって寝ている人をまだまだたくさん見かけます。イタリアでそんなことをしたら、持ち物を全部盗られてしまうのが落ちですから誰も眠り込んだりしません。日本は確かに世界でも珍しいほど安全で素晴らしい国なのです。
 そのイタリア人がうらやむ安全な国の日本人は、いつの間にか、いくつかの凶悪犯罪のショックと、個人情報保護法の導入以来、持ち前の無防備さの裏返しからなのか、他人への警戒心で極端な過剰反応をおこすようになってしまったように見えました。必要以上に人を信用しなくなった副作用は、人と人とのつながりのきっかけをまで阻害しているように見えました。
 イタリアでもちょうど同じ時期に、個人情報保護法が導入されたのですが、イタリアではその都度、本人の許可を得ることを条件に、情報はそれまで通り公開されています。日本では役所が率先して個人情報をストップさせてしまったせいか、お隣の電話番号すら分からないような状態になり、人間不信をますます募らせました。こうなると都会ではご近所で気軽に相談する人もいなくなり、おれおれ詐欺をはびこらせる遠因となっているようにも見えます。誰かの真の隣人になることは、日本人にとっては気も使いますし、なかなか難しいことです。波風を立てず、表面的にそつなくつき合うことは得意でも、自然体の人づき合いのぎごちなさ、誰に対しても胸襟を開いて自然体でつきあう技は、自分もあまり得意ではないと反省しきりです。 神に感謝。

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「第2回 宗教画と偏見」2018年11月

 日本のカトリック教会のお聖堂はたった三つしか知りませんが、三つともイタリアで出会った数えきれないほどの教会とはだいぶ様子が違っていました。イタリアの教会は内部が大抵、壁画や彫刻で埋め尽くされている感じなのですが、日本の教会はどれも、すっきりと最小限の装飾だけが施され、端正な空間に信者たちを迎え入れていました。
 イタリアに行ったばかりの時はまったく理解できなかったのですが、三十年後にイタリアについて本を書くことになった時には、「なぜイタリアでは教会にあんなにたくさん壁画を描いたのだろう」、という疑問の答えも出ていましたし、「なぜ自分はあれほどイタリアのカトリック教会がきらいだったのだろう」という問いの答えも出ていました。
 実は私には、ハリス幼稚園の三年保育に通ったご縁で、三歳から十七歳までプロテスタント教会に通った経験がありました。毎週休まず日曜学校に通い、毎年皆勤賞まで頂き、中学・高校の頃は、ボランティア活動にも熱心に参加していました。「偶像崇拝はいけない」というプロテスタントの先入観がしみついていて当たり前でした。それに、考えてみると鎌倉ではお寺も禅寺が多く、渋く端正に整っている空間が多かったことも、大いに影響があったと思います。
 そうした経験からくる、信仰の空間に対する先入観で見たイタリアの教会は、どれもこれも、あまりにごちゃごちゃとカラフルで、宗教的な敬虔な気持ちになどまったくなれない、あまりにも異質な空間に見えました。これは全然趣味の違う世界だ、とても受け入れられない空間だと感じてしまったのです。こうして三十年間イタリアに住んでいながら、ただただカトリック教会を避けて暮らしてきました。ましてや自分がカトリック信者になろうなどとは、ただの一度も考えたことはありませんでした。しかも宗教というもの自体についても、実は強い不信感がありました。
 鎌倉教会に通っていた頃のことです。忘れもしない高校二年の夏休み、私には一つ年上の親しいボランティア仲間がいました。初めて手袋を編んであげた人でした。十八歳の誕生日に親に買って貰ったオートバイで一週間後に、なんと江の島の橋の欄干に激突して死んでしまったのです。信者だったお母様が牧師さんにお願いして、彼は死の床で洗礼を受けました。私の目の前で。ところが翌日お葬式に出向いてみると御仏壇が飾られ、お坊さんがお経をあげているではありませんか。お父様のご希望で戒名がさずけられ、彼は粛々と仏教で弔われたのです。当時は多感な十七歳でした。宗教があまりにいい加減に見えてしまい、いろいろ思い悩んだ末、九月の第二週目でばったり教会に行くのをやめました。納得できるまで教会に通うことはとてもできないと思ったのです。それ以来ほぼ四十五年間、一度も宗教と真剣に向き合うことなく、その必要を感じることもなく過ごしてきました。
 けれども三十年も住んでだんだんイタリアのことが分かってくると、そこら中に氾濫する宗教美術の答えは至極簡単でした。イタリア半島の住民のほとんどは、読み書きが全くできなかったのです。これらの宗教画や彫刻は、信者の大半が文字の読めなかった時代、ミサがラテン語で行われていた時代に、主のみ言葉や聖書のたとえ話、様々なエピソードを説明するためには欠かせないツールだったのです。だから教会中のスペースを隅々まで使って、できる限りたくさん説明の絵を描いたのです。
 こう分かって改めて観察してみると、星の数ほどある教会の一つ一つに描かれている絵の圧倒的な量に、二千年の歳月の中で壁画に連綿とかかわってきた数えきれないほどの人々の思い、キリストを伝えようとする篤い思いをひしひしと感じ、ただただ圧倒され涙が出ました。自分が無意識に持っている先入観や個人的な経験による偏見で、自分の世界とは別の世界を軽はずみに拒絶し、決めつけてしまうこわさを思い知り、大いに反省した次第です。
神に感謝。

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「第1回 一糸乱れぬ盆踊り」2018年10月

 毎年夏休み、石川県が国際交流事業の一環で全世界から大学生を受け入れている日本語研修プログラムに、教えていたトリノ大学の学生たちが大変お世話になりました。
 滞在期間中さまざまなプログラムを組んでくださるのですが、その夏は幼稚園生の盆踊り見学会がありました。夏休みが終わり、トリノに戻った17人の学生たち一人ひとりに、研修の印象を聞くと、4人の学生がこの盆踊りにふれました。
「個性を自由に伸ばすべき年齢の子に、同じ踊りを強要するなんて信じられない。あれは虐待です。あの年齢の子はあんな風には踊りません。日本人はいったい何の目的であんなことをさせるのか、可愛そうで見ていられませんでした」大学1年生の男子が本気で憤慨していました。
「幼い子供たちがあんな風に踊るわけがない。子供たちが上手に踊れて自慢なのは大人でしょう。まるで動物に芸をさせて喜んでいるみたいで、悪趣味で不愉快でした」(大学2年生男子) 「子どもたちが可哀そうで可哀そうで見ていられませんでした。日本では小さい時からあんなことをさせるのですか。個性を殺すあんな訓練にどんなメリットがあるのですか」(大学2年生女子) 「みんなで揃って同じことをする訓練を日本ではあんな幼い時からするのかと思いショックでした。幼い子に好きなように躍らせないなんて考えられません。私だったら耐えられなかったと思います。」(大学3年生女子)
 個性を大事にする彼らの考え方はよく分かっているつもりでしたが、この反応は想定外で心底参りました。日本人にとって全く普通のこと、疑問に思ったこともないことを彼らはこんな風に受け取っていたのです。一糸乱れず何かをすること、一致団結の精神、短期決戦で力を合わせて何かに打ち込むことは、日本人の得意技です。考えてみるとこれらは昔から日本で暮らす日本人にとって、とても役に立つ能力だったのではないでしょうか。  台風を避け、皆で必死に協力して一斉に稲刈りをしなければ収穫がゼロになった風土です。きっと必要不可欠な能力だったに違いありません。彼らが言うように盆踊りも自然に皆で同じ行動をする訓練になっていたのかもしれません。イタリア社会は逆です。臨機応変こそが大事な社会です。その都度その都度、自分の創意工夫で問題解決ができなければ生き延びられない社会です。彼らには理解できない奇妙な訓練に見えたことでしょう。 このイタリア人にとっては特別な行動、日本人には無意識の得意技、皆と合わせる行動は、カトリックと向き合う時、どのように作用するのでしょうか。皆で同じ言葉を繰り返し、他の人が立ったら立ち、座ったら座る。全く違和感のない行動だからこそ、もう一度しっかり、一つひとつに心を宿してミサに臨みたいと反省した次第です。神に感謝。

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「イタリアのカトリック地域コミュニティ」2018年8月

 カトリック教会とは、カトリック=普遍的、教会=コミュニティなのだとイタリアで教わりました。そしてなんとミラノで実際にその“普遍的コミュニティ”と出会いました。

家から一番近かったというだけで選んだその教会は、1960年代にできた、一見、工場のような外見の歴史や伝統とは無縁の新しい教会でした。ミラノは東京と同じで、地方からたくさんの人が働きに来るイタリア経済の中心地です。1960年代に南から東から働きに来ていた人たちが、力を合わせて、自分たちの地域コミュニティの拠点として、焼け野原に丸太小屋を建てたのが、その教会の始まりでした。

毎朝9時にミサがありました。朝9時のミサなど、学生や勤め人は参加できませんから、来るのは年寄りばかり、最初は、イタリアでも教会は老人ばかりで元気がないのかと思いました。ところが実態は全く違っていました。その教会は、各世代がいつも参加をして活動する場所ではなく、一生の人生サイクルの中で、各自が必要とする時期に、必要に応じて共有し、可能な時期に可能な形で自由に参加、協力する、全く自然で合理的な地域社会システムとして成り立っていたのです。

幼児、小学生から中学生までの児童生徒は、ほぼ全員が頻繁に教会に出入りしていました。教会付属の屋内施設や幼児の遊び場、サッカー場は実質、幼児・学童保育施設として機能していましたし、サッカーはどの子もまず教会チームの対抗戦から始まっていました。高校生や大学生になるとだんだん他の活動が忙しくなり、社会人になると仕事が中心になりますから教会に来る回数がぐんと減ります。けれども結婚をして子供ができると

また、教会を全面的に頼って、毎週開かれる教理教室やサマーキャンプに子供を預け、子供と一緒にさまざまな教会の行事に参加します。そして高齢になり、年金生活者になると暇ができますから、幼馴染と会える教会にまた頻繁に通うようになり、毎朝20分のミサの後、友達とコーヒーを飲んでおしゃべりをし、午後からは暇のある人が、学校帰りの子供たちのいる遊び場やサッカー場周辺で、子供たちを見守りながら井戸端会議をする、という実に合理的なシステムが全くの自然体で実現されていたのです。イタリアは有名な世界遺産の宝庫ですが、このカトリックの地域コミュニティこそ、主が残してくださった人類の最もすばらしい世界遺産なのではないかと思ったものでした。

中学生ぐらいの女の子がサッカー場の隅で煙草を吸っているのを見かけたとたん、一人のおばあちゃんがものすごい剣幕でとんで行って叱ったり、認知症の友人の年金受け取りに郵便局まで2、3人がつき合ったり、こうして、地域社会共同の子育てと高齢者サポートが、税金を使った制度の形ではなく、ホットな人間関係として自然に実現され、人生が教会を中心に、ほとんど無償の形でまわっている生きた例が実際に存在したのです。

皆がいろいろな相談をするので神父様は、地域のことはなんでもよくご存知でした。私も税理士さんを紹介して頂いたり、不動産売買の仲介までしていただきました。イタリアでは教会の実態も神父様により教会により、それぞれで全く違うのですが、星の数ほどある教会の中で、こんなにも素晴らしい教会コミュニティと出会えたこと自体に不思議な手を感じ、心から主に感謝しております。もしもあのようなコミュニティに出会わなければ、私がカトリックに近づきたいと思うこともなかったと思いますから。

 

 

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盆踊り
イタリアのカトリック
宗教画と偏見2018-11
ミサと置き引き2018-12
小さな親切2019-1
(1)自立とルール2019-2
(2)自立とルール2019-3
(3)自立とルール2019-4
小さな村の物語2019-5
スキンシップと信仰2019-6
(1)教育というもの2019-7
(2)教育というもの2019-8
(3)教育というもの2019-9
ラッシュアワーと行列2019-10
(4)教育というもの2019-11
神父様への手紙2019-12
(5)教育というもの2020-2
(6)教育というもの
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