カトリック由比ガ浜教会

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【マリオ神父様の 聖書こぼれ話】

 

 

 

「第16回 知恵の書」2019年11月

 

「知恵の書」は、キリスト教の聖書にありますが、ユダヤ人の聖書にはありません。第二の聖典にある7つの書の中の一つです。カトリック教会と東方教会が聖書に入れていますが、プロテスタントでは聖書にいれていません。ソロモンが書いたかのように紹介されていますが、これもコヘレトや箴言と同じように、文学的な技巧にすぎません。「知恵の書」は紀元前1世紀に書かれたもので、作者が誰であるかは専門家の間で一致していません。ギリシャ語で書かれて、旧約聖書の最後の本になります。おそらく皆さんが、一番興味を持たれる箇所は最初の3つの書だと思います。そこには、悪について、無信教の考え方と、永遠の命について書いています。

例えば、初めに、知恵を得るために、悪を避ける人について書かれています。

知恵は悪を行う魂には入らず、

罪のとりこになっている体には住み着かない。

人を教え導く聖なる霊は、偽りを避け、

愚かな考えからは遠ざかり、不正に出会えばそれを嫌う。(1:4-5)

 

また、死は罪の結果であり、神がすべての人を生きるためにお造りになったと、宣言しています。

神が死を造られたわけではなく、

命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。

生かすためにこそ神は万物をお造りになった。

世にある造られた物は価値がある。

滅びをもたらす毒はその中になく、

陰府がこの世を支配することもない。(1:13-14)

 

知恵の書は19章によってできていますが、前述したように、一番興味があるのは、最初の3つの書でしょう。(ここに全て記せませんので、ぜひ読んでください。)

今回をもって、7つの教訓の書を簡単に紹介しましたが、次回からは、何のこぼれ話をしましょうか・・・、お楽しみに。

 

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「第15回 シラ書」2019年10月

 

去年の6月から旧約聖書にある教訓の書(詩編・コヘレト・箴言・ヨブ記)について、ちょっと触れました。まだ2つの本が残っています。「シラ書」と「知恵の書」です。両方ともプロテスタントからは聖書として認められていませんが、認めても認めなくても、読めば良いことがたくさん書いてあります。

今回「シラ書」について一言。

この本は紀元前200年頃、ベン・シラという人によりヘブライ語で書かれていましたが、70年後、彼の孫によってギリシャ語に翻訳されました。彼は、特にエジプトにいたユダヤ人を支えるために訳しました。この本には来世のことについて何も触れていませんが、道徳的にどんな時代にも通じるもので、初代教会は信者の教育のためによく使っていました。従って、私たちのためにも通じるところが多く、少しずつ読むことを勧めます。

シラ書の中身を二つに分けるなら、「教訓的な部分」と、「偉大な人たちのことを褒めたたえる部分」です。シラ書は次のように始めます。

 

”すべての知恵は、主から来る。 主と共に永遠に存在する。

浜辺の砂、雨の滴、永遠に続く日々、

だれがこれらを数え尽くしえようか。

天の高さ、地の広さ、地下の海、知恵の深さ、

だれがこれらを探りえようか。

知恵は、他のすべてのものに先立って造られ、

その悟る力も、久遠の昔から存在している。

[知恵の泉は、いと高き所にいます神の言葉、知恵の歩みは、永遠の掟。]

知恵の根源が、だれに示されたであろうか。

その巧みさを、だれが知りえたであろうか。

[知恵がもたらす知識を、だれが見たであろうか。

知恵がもたらす豊かな経験を、だれが理解したであろうか。]

知恵ある方はただひとり、いと畏き方、

玉座に座っておられる主である。”

 (シラ1:1-8)

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「第14回 ヨブ記 ②」2019年9月

 

 先月、ヨブの深い信仰にもかかわらず、苦しみのあまり神に対して冒とくの発言までしてしまいました。しかし、神のことを絶望しても、神の存在は否定しませんでした。彼の怒りの言葉は、神の沈黙のせいだけではなく、友達の理屈に対する憤りでもあったと思います。ヨブはたびたび神の答えを求めていたので、神ご自身が彼に現れてきましたが、理論に基づいた答えではなく、地球の創造と自然の現象をもって、神と人間の立場は違うのであり、ちっぽけな人間は、神に指さす資格がどこにあるだろうと考えさせました。

 

”主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。

これは何者か。

知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。

男らしく、腰に帯をせよ。

わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。

わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。

知っていたというなら理解していることを言ってみよ。

誰がその広がりを定めたかを知っているのか。

誰がその上に測り縄を張ったのか。

基の柱はどこに沈められたのか。”

(38:1-6)

 

やはり、そこにヨブはなぜ苦しむかをわからなくても、神と対等ではないだけを理解しました。

 

”ヨブは主に答えて言った。

あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』

そのとおりです。わたしには理解できず、

わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。

『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』

あなたのことを、耳にしてはおりました。

しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。”

(42:1-6)

 

つまり、ヨブ記に出てくる罪のない人間の苦しみは、理論ではなく、信仰に基づいた答えなのです。

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「第13回 ヨブ記 ①」2019年8月

 

 ヨブ記は、聖書の教訓の書の中一番で優れた傑作だと言われています。

なぜかというと、永遠の問題である、罪のない人間の苦しみについて語っているからです。その上、文学的にもよく評価されています。
作者は不明ですが紀元前5世紀頃に書かれたものだと言われています。
作品は物語ですが、中心になるのは信心深い正しい人であったヨブが、なぜ苦しまなければならないのか、ヨブは神にずっと問いかけます。最初は財産と子供が奪われてもそれに素直に耐えています。

 

”わたしは裸で母の胎を出た。

裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。”(1:21)

しかし、身体の健康も奪われるとヨブもだんだん耐えられなくなります。生まれたこと自体、災いだと言います。
 

”ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツオファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやってきた。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。”(2:11-13)

ユダヤ教では、災いは罪の結果であると信じたので、ヨブの友達は彼の怒りを抑えようとして、ヨブの苦しみは自分の罪の結果であると言い、さらにヨブを怒らせる。そしてヨブは神を冒とくするような言葉まで言ってしまいます。その冒とくの言葉は、

 

”それは確かにわたしも知っている。

神より正しいと主張できる人間があろうか。

わたしのようなものがどうして神に答え

神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず

わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。
 神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ

理由もなくわたしに傷を加えられる。
息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。
力に訴えても、見よ、神は強い。
正義に訴えても証人となってくれるものはいない。
わたしが正しいと主張しているのに 口をもって背いたことにされる。
無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。

生きていたくない。
だからわたしは言う、同じことなのだ、と

神は無垢な者も逆らう者も 同じように滅ぼしつくされる、と。
罪もないのに、突然、鞭打たれ

殺される人の絶望を神は嘲笑う。”(9:2,14-23)

 

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「第12回 箴言 ③」2019年7月

 

 旧約聖書には、女性についていろいろなことばがあります。その中で、この『箴言』の最後に理想的な奥さんについて書かれています。マリア様もこの箇所を読んで、その模範に近づこうとなさったかもしれません。『箴言』の女性は有能で活発な女性であり、経済的によく振舞うことによって、家庭を豊かにしますが、その豊かさを貧しい人に分ち合います。子供から愛され、神を敬う女性です。しかし、紀元前5世紀頃書かれた本ですから、時代によって、文化によって、人によって、奥さんの理想は多少違ってくると思います。できたら皆さんには、その箇所(31章10-30節)を全部読んでから、ご自分にとって、現代の理想的な奥さんはどんな人か考えてみてはいかがでしょう。

今回の箇所は少し長いので、抜粋して紹介します。

 

”有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。

夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。

彼女は生涯の日々夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。

羊毛と亜麻を求め、手ずから望みどおりのものに仕立てる。

・・・・

夜の明ける前に起き出して、一族には食べ物を供し

召し使いの女たちには指図を与える。

・・・・

貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。

雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。

敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。

・・・・

力と気品をまとい、未来にほほえみかける。

口を開いて知恵の言葉を語り 慈しみの教えをその舌にのせる。

一族の様子によく目を配り 怠惰のパンを食べることはない。

息子らは立って彼女を幸いな人と呼び 夫は彼女をたたえて言う。

「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる」と。

あでやかさは欺き、美しさは空しい。

主を畏れる女こそ、たたえられる。”

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第11回 箴言 ②」2019年6月

  

 先月『箴言』は、”知恵”と言う言葉が中心で、二つの意味があると書きました。その一つは「神のみ旨に従って生きる」ということでした。この視点から見ると、『箴言』にはいろいろな話題について書かれていますから、その代表的な言葉を紹介するのは難しくなります。そこで今回は、私の好みでいくつか紹介しようと思います。

例えば、

 

”施すべき相手に善行を拒むな あなたの手にその力があるなら。

出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな あなたが今持っているなら”

箴言3:27)

”憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。”

箴言10:12)

”美しい女に知性がかけているなら、

豚が鼻に金の輪を飾っているのと同じです。”

箴言11:22)

”柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。”

箴言15:1)

”相談しなければどんな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。”

箴言15:22)

”人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。”

箴言19:21)

 

皆さん、今月も『箴言』をゆっくりと少しずつお読みになると、ご自分が気に入る言葉や、ご自分に当てはまる言葉がきっと見つかることでしょう。

 

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第10回 箴言 ①」2019年5月

 

 今回は『コヘレト』と『雅歌』に続いて、『箴言』という本を紹介したいと思います。『箴言』の中には、その内容について初めに次のようなヒントを与えてくれます。

”イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ 分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて 正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え 若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え

聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話 賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。

無知な者は知恵をも諭しをも侮る。”

(箴言1:1-7)

この本も『コヘレト』と『雅歌』と同じように、重みを与えるためにソロモンによって書かれたと記されていますが、実際は国民の中から500年(紀元前10~5)にわたって生まれてきたものです。その後、学者達によって綺麗にまとめられ、付け加えられたものもあると云われています。

『箴言』は“知恵”という言葉が中心になりますが、その知恵は、単に神のみ旨に従って生きるという意味と同時に、人格的な存在として紹介されています。例えば、

神によって生きる知恵 父の諭し

”心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず

常に主を覚えてあなたの道を歩け。

そうすれば  主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

自分自身を知恵ある者と見るな。

主を畏れ、悪を避けよ。”(箴言3:5-7)

 

人格としての知恵 知恵の勧め

”知恵は巷に呼ばわり 広場に声上げる。

雑踏の街角で呼びかけ 城門の脇の通路で語り掛ける。

いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち

不遜なものは不遜であることを好み

愚かな者は知ることをいとうのか。”

(箴言1:20-22)

来月もこの本について書きたいのですが、それまでに、皆さんも読み始めてはどうでしょうか。できたら一度に読まないで、毎日1~2頁程読んでから、少し考えてくだされば良いのではないかと思います。

 

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「第9回 雅歌」2019年4月

 教訓の書を少しずつ紹介しようと思ってコヘレトから始めました。今まで4回に

渡ってコヘレトについて、いくつかのことを申してきましたが、聖書にはそのすぐあとに『雅歌』が載っています。その最初から最後まで8章にわたって次のような歌が書かれています。

ソロモンの雅歌

”どうかあの方が、その口のくちづけをもって

わたしにくちづけしてくださるように。”

おとめの歌

”ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く

あなたの香油、流れるその香油のように

あなたの名はかぐわしい。

おとめたちはあなたを慕っています。

お誘いください、わたしを。

急ぎましょう、王様

わたしをお部屋に伴ってください。”

(雅歌1:1-4)

 

皆さんはこれを読んで驚かれるでしょう。この本は直接、神のことについて書いているのではなく、単なる恋の詩の収集にみえます。なぜ聖書にこのような本が入れられたのでしょう。ユダヤ人にとって(そのあとキリスト教にとっても)、神と人間の関係は愛に基づいたものであり、恋人同士のような恋の詩がふさわしいと思われていたのでしょう。確かに、『雅歌』の言葉だけをみると、ただ好きな者同士の会話のように見えますが、ユダヤ人にとって、神と人間の愛はかかせないものであり、それを裏切るということは、姦通の罪であると考えていたのです。つまりこの本は文字通りに読めば単なる恋の詩ですが、宗教的に読めば、神とユダヤ人との関係を比喩した詩と理解できるでしょう。

『雅歌』はソロモンが書いたかのように書かれていますが、実際には、バビロニア(追放から紀元前5~6世紀)にまとめられた本のようですので、ソロモンが書いたものではありません。昔のユダヤ人たちは、威厳を与えるために有名な人が書いたかのように見せたのです。コヘレトも知恵の書も同じです。皆さん、『雅歌』を読む私たちは、神に対しての愛を情熱的に育てるようにして、福音的に生きるように願いましょう。

 

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「第8回 コヘレト ④」2019年3月

 コヘレトを読んで好きになった人は少なくないと思いますが、私もその中の一人です。しかし、キリスト教的な立場から見れば、三番目に合わないことは彼の自己中心的な考え方だと思います。コヘレト記は全体にその考え方を表していますが、一つの例として次の言葉を紹介します。

 

”太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう、

後を継ぐ者に残すだけなのだから。
そのものが賢者であるか、愚者であるか、誰が知ろう。

いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、
労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、

全く労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。
これまた空しく大いに不幸なことだ。”

(コヘレト2:18-19,21)


イエスの教えとは、ずいぶん違うでしょう。自分自身をすべての中心として考えるのではなく、神と人のためなら空しいものではなく、すべて良いのです。人の幸せは自分の幸せであり、神がお喜びになることは全て素晴らしいのです。 

“神を愛し隣人を自分のように愛しなさい。”ということがコヘレトは理解できなかったのでしょう。ただ本の最後に全体の雰囲気と違った結論を出します。つまり、善と悪全て空しい感じではなく、人間の行いは全て神から裁かれるということを強く訴えます。


”神を畏れその戒めを守れ。」これこそ人間のすべて。
神は善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。”

(コヘレト12:13-14)

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「第7回 コヘレト ③」2019年2月

 コヘレトのことについて、2番目にキリスト教的な考え方に合わないのは、来世のことをはっきり認めていないことです。


”人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。
神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを

見極めさせるためだ、と。
人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。
同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。
すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
すべては塵から成った。すべては塵に返る。
人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。

人間にとって最も幸福なのは、
自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。”

(コヘレト3:18-21)

現代では、動物の永遠の命を望む信者も少なくないのですが、聖書には、動物について何も書いてありません。イエス様は人間の救いのためにいらしたので、動物の死後については何も教えていません。自然は動物を含め、すべてその本能によって生きているのですから、罪については関わりのない世界であり、
イエス様の使命『罪を贖うこと』には何の関わりもありません。コヘレトの『人間と動物は同じで、すべて塵に返る』という言い方の意味は、両方とも死によって命が消えてしまうということ。しかし、キリスト信者は、人間は神に裁かれ、永遠の罰か、永遠の命があるだけではなく、体の復活も信じています。
コヘレトはそれと大きな違いがあるのです。
パウロに書いてあるように、


”兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、

希望を持たないほかの人々のように

嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。

イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。

神は同じようにイエスを信じて眠りについた人をも、

イエスと一緒に導き出してくださいます。”

(テサロニケ4:13-14)

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「第6回 コヘレト ②」2019年1月

先月『コヘレト』について、キリストの教えに合わないことが3つあると書きましたが、何人かの方が、“合わないことは何でしょう!?”とおっしゃったのですが、その後、最初から終わりまで読まれたでしょうか。

コヘレトは、初めに次のように書いています。

”コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ。すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するがすべての労苦は何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり・・・”
(コヘレト1:1-4)

キリスト教的な考え方としては、全て儚いですが、むなしいものはひとつもありません。存在しているものは全て神から造られ生かされているのですから、わかってもわからなくても意味があります。創世記の天地創造の物語の終わりに次のように書かれています。

”神はお造りになったすべてのものを御覧になった。

見よ、それは極めて良かった。”
(創世記1:31)

神は意味のない者を造らないはずです。ただ、すべては過ぎ行くのですからすべて儚いものと言えるでしょう。
私たちは地上で、この人生が全てではないことを、そして通り道でしかないことを心に留め、神のもとに永遠の命に向かって歩んでいることを忘れてはいけないでしょう。

 

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「第5回 コヘレト ①」2018年12月


 4回にわたって『詩編』について書きましたが、今回『コヘレト』という本を紹介しようと思います。紀元前3世紀ごろ書かれた本で、旧約聖書の中では、一番キリスト教的な考え方に遠い書物です。その本を読むと、「どうして教会は聖書の中にそれを入れたのか」という疑問がわいてきます。しかし、コヘレトは「全てむなしい」と言いながらも、神を信じているので、この世は意味があるはずと感じています。そして来世を否定しているにもかかわらず、最後に来世を思わせるようなことばを書きます。


”神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて。
神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。”

(コヘレト12:13-14)


来月は、キリスト教的な考え方に合わない点(少なくとも3つある)について紹介しますので、予めご自分たちで読んで、それを見つけたらとても良い勉強になると思います。 お楽しみに!

 

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「第4回 詩編130」2018年11月

 前回まで、「慈しみ」と「喜び」を表す詩編について、ほんの少ししか紹介しませんでしたが、今回は、死者のためにとなえた、私の好きな詩編の中のひとつ『詩編130』を読んでいただきたいと思います。そして、それが、ご自分の祈りになれば幸いです。

はじめにどん底に落ちた人は、神に祈りを叫びます。 


“深い淵からあなたに叫ぶ”

また罪びとであっても神の慈しみによって救われることを信頼しています。

“主よ、悪に目をとめられるなら、誰が立っていられましょう。”

それで希望をもつことができるのです。そして次の言葉でその気持ちを表します。

“夜回りが暁を待つと同じように、主を待ち望みます。”

 

短い詩編なので、毎日唱えれば簡単に覚えることが可能ではないかと思います。
 

”主よ、わたしは深い淵からあなたに叫びます。
主よ、わたしの声を聞き入れ、切なる願いの声に耳を傾けてください。
主よ、もしあなたが悪に目を留められるなら、

主よ、誰が立っていられましょう。
しかし、あなたのもとには赦しがあります。

それゆえ、人々はあなたを敬います。
主はわたしの望み、わたしの魂の望み。わたしはその言葉を待ち望む。
夜回りが暁を待ち望むにも増して、わたしの魂は主を待ち望む。
イスラエルよ、主を待ち望め。

主のもとには慈しみがあり、豊かな贖いがある。
主自ら、イスラエルをあらゆる悪から贖ってくださる。”

(詩編130 フランシスコ会訳)
 

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「第3回 喜びの詩編」2018年10月


 「喜び」は人間の根本的な欲求だと思います。人間は、神からも人からも愛され、愛することができる時、深い喜びを感じるでしょう。その喜びは、詩編の中にも書かれています。「喜び」は神からきて私たちに元気を与えて下さるのです。

”新しい歌を主に歌え。全地よ、主に歌え。み名をたたえて、主に歌え。

日ごとに、その救いを宣べ伝えよ。
国々の中で、その栄光を語れ、すべての民に不思議な業を。” 

(詩編96:1-3 フランシスコ会訳)

”天は喜び、地は楽しめ。どよめけ、海とそこに満ちるもの。

喜び躍れ、野とそこにあるすべてのもの。
森の木々もみな、み前で喜び歌う。主が地を統べに来られるから。

主は正義をもって世界を裁き、まことをもって諸国の民を治められる。”

(詩編96:1-3 フランシスコ会訳)

また創造のすばらしさを見つめるなら、感嘆して神をたたえるようになるでしょう。


”あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。

月も、星も、あなたが配置なさったもの。

そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。

人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

神に僅かに劣るものとして人を造り、

なお、栄光と威光を冠としていただかせ

 御手によって造られたものを全て治めるように

その足もとに置かれました。”

(詩編8:4-7 新共同訳)

”イエスは“わたしは世の光である。

わたしに従う者は、決して闇の中を歩くことなく、

命の光を得るであろう” 

(ヨハネ8:12 フランシスコ会訳)

次の詩編もその光を示します。


”主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。

主はわたしの命の砦、わたしは誰をはばかろう。
悪を行う者らがわたしの肉を食い尽くそうと襲うとき。

わたしに仇するもの、わたしの敵はよろめき倒れる。
軍政がわたしに対して陣を敷いても、わたしの心は恐れない。

わたしに対する戦いが起ころうとも、わたしは信頼を失わない。”

(詩編27:1-3 フランシスコ会訳)


私たちも詩編を書いた人たちのように、神の喜びを感じ、それを表すことができるように求めましょう。

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「第2回 詩編」2018年8月

 先月約束したように、今回から少しいくつかの詩編を紹介します。

今回は、特に人に対する神の慈しみをあらわす詩編を選びたいと思います。

たくさんある中で3つを選び、その中の2~3行を紹介します。

 

人は苦しい時、失敗した時、がっかりしている時、神に向かって叫びます。

”主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。

あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください。

あなたの僕を裁きにかけないでください。

御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。”

(詩編143:1-2)

 

自分の失敗によって、人生が破れた服のようになり、涙で、犯した悪を洗い流すことができない時、そこにいつも神の慈しみがあります。

”神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。

深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。

わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。”

(詩編51:3-4)

 

人間は傷つけられた時、すべてに対して信頼を失った時、

その時こそ神がそばにいて下さることを信じるのです。

”主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。

主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。”

(詩編34:18-19)

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「第1回 詩編第一」2018年6月

 

 今月からこのコーナーを通して、少し聖書からヒントを取って、自分たちの信仰生活に役立つような話をしたいと思います。

個人的に祈る時、『詩編』という昔のユダヤ人の聖歌集であり、祈祷書でもある本について書きたいと思います。『詩編』という本は150の歌によってできており、ユダヤ人の魂がそこに表れていると思います。『詩編』の根源ははっきりしていませんが、おそらく一番古いものは紀元前1000年位に遡ります。本としてまとめられたのは、紀元前3世紀ころでした、つまり700年間をかけて集められたものです。ユダヤ人の伝統によると、ダビデが一番偉大な作者だと思われています。その内容は様々ですが、キリスト信者に使う時に、少し合わないような言い方もありますが、大部分の場合、キリスト信者もその祈りを味わうことができると思います。オリエンス研究所が出版した『詩編で祈る』という小冊子には、50詩編位のテーマに分けて紹介されています。私も何回かに渡ってそれを少し紹介したいと思います。『詩編』を使って祈ることによって、もしかしたら、私たちの祈りの仕方を活性化してくれるのではないかと思います。この希望をもって私たちも、神を憧れるように42番の詩編から1節をとって共に祈りましょう。 

 

”谷川の水を求めて、あえぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う。

私の心はあなたをもとめ、神のいのちをあこがれる。”

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