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【投稿・寄稿コーナー】

 

 

 

「谷戸の暮らし その2」2020年2月(S.Sさん)下窄貞夫

 

昨年の台風はすごかった。年が明けてもなお仮設での生活など不便を強いられている方が一日も早く立ち直れますようお祈りします。この山崎の谷戸も谷を吹き抜ける風の力はすざましく電柱ほどの太い木が途中からポッキリ折れたり倒木で道が塞がれたりと大変でした。今は応急策で片付き、小学生の野外教室など賑わいを取り戻しました。伝統行事のどんと焼きも終わり、これからは里山歩きで寒さから心身を鍛える季節です。元気なころは日曜ごと歩いて山崎の谷戸から梶原口に上がり尾根伝いに源氏山へ、銭洗い弁天を下り佐助を通って教会へ行きました。冬の真白き冨士もくっきり最高です。

 山崎には隣接し台峯とよばれる大きな緑地もあります。かつて大手業者により大規模開発が計画されていました。しかし、井上ひさしさんをはじめとする鎌倉ゆかりの作家や文化人が、保全運動に積極的にかかわりました。おかげで山崎谷戸の尾根の東側山崎小学校の南奥から、魯山人の窯跡、谷戸の池、北鎌倉女子学園のグランドあたりの広大なもう一つの谷戸が自然のまま残されることになりました。市が保全計画を考えています。よかった。

 ところで作家井上ひさしさんはかつて佐助に居をかまえておられ、教会の道すがら彼の自宅の路地入口を通るたび、出くわすかもと思ったりもしました。

ヘビースモーカーで肺がんのため治療の甲斐もなく、2010年亡くなりました。私も「たばこなんて関係ない」と言っていた手前、ドキッとしました。そして案の定同じ病に。亡くなる前、市役所側の駅タクシー乗り場で、ひとり前にいた井上さんと偶然並びましたが「作品のファンです」と声を掛けることができなかった。あの時すでに駅からすぐの佐助まで歩けないほど疲れていたのかな。

 彼も一時期カトリックの信徒でした。いくつか作品を読みましたが中でも「我が友フロイス」が興味深かった。実在したイエズス会宣教師フロイスの目をとおして、信長から秀吉の時代の初期日本人カトリック教徒の様子を描いた書簡体小説です。印刷など伝達技術もない時代に、少数の宣教師だけでフランシスコ・ザビエルの来日からわずか数十年、戦国大名をはじめ、多数の信者を獲得しました。当時の信者数は、およそ30万から40万人と推定されています。 当時の日本の推定人口は1800万人ほどだったから、その比率はすごいことですね。なぜそこまでカトリック信者を増やせたのか、かねてから私の謎でした。井上さんは小説を通して日本人の宗教観の一面を次のように表現しています。

 〈ザビエルの布教により宣教を助けた戦国大名大友宗麟の豊後(大分)藩、その27年あと藩主が戦に負け勢いが衰えた藩内にフロイス神父は赴任しました。集団改宗した善男善女が雲霞のごとく群れ集っていたと聞いていた教会堂や慈善施設は藩主の保護を失い死んだように閑散としていました。フロイスは素知らぬ顔で教会堂を素通りする信徒に「洗礼を受けるということは自分の意思で生き方を変える決心をしたのでは?」と質問したところ「あのときは誰もが教会はいいと云っていましたし、それに私は難しいことはどうも苦手でして・・・」「弱りましたなどうも」をくりかえすばかりと。この状態をほっておけないとフロイスは布教長に相談しました。その先輩いわく「私のおもむくところ常に黒山の人だかり、彼らはキリストの福音を聞くためではなく異人が珍しくてしかたがない。この国の人の新しきもの好きは異常である」と〉

 宣教から400年、情報技術や科学進歩した今、私たちはどうでしょう。記憶に新しい昨年来の渋谷や各地のハロウィン騒動、また“年一度一億ぐるみ改宗し”と川柳によまれたご降誕など、彼が小説で指摘した日本人の宗教観にそういう見方もあるかなと思います。

 

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「地上を旅するあなたの教会」2019年12月(T.Eさん)遠藤多喜子

 

 いつ頃からであったであろうか 

御ミサに与かった後の余韻の中で、或いは日々の生活の中でこの「地上を旅するあなたの教会」と言う言葉が脳裏から離れなくなったのは。

少なくとも物心の付いた頃、初台教会でのミサの中では使用されていなかったと思う。「地上を旅するあなたの教会」とは一体何を意味するのだろうか。

イエスはペトロが受難の前に自分を3回否む事や、迫害から逃れる為ローマを離れるアッピア街道で「QUO VADIS DOMINE?」と尋ねる事も、又、ペトロの人間としての弱さを全て承知し乍、彼に様々な権能を与えた。イエスは更にケファ(ペトロの別名、強固な巌)の上に自らの教会を建てさせ、キリストの代理者として「天の国の鍵」を授けたと伝承されている。かつて教会は絶大なる権威を持ち、権力を握り、神の意思に反した誤謬や独善的な言動を行使した時代があったかも知れない。その様な歴史に対する反省を含め「地上を旅するあなたの教会」と解釈出来ないだろうか。勿論この様な私の単純で短絡的な意味では無く、神学的、哲学的見解に基づいて考察された言葉であるだろうが。

何れにせよ、教会は時代に即応し、他者を受け入れる寛大な存在として大改革を行った。強固の巌、ペトロの上に建てられた教会が大きく動いた。

1962~1965年の第二バチカン公会議の開催である。公会議では教会はエキュメニズム、即ち東方教会、英国国教会やプロテスタント諸派との対話と和解を模索し、他宗教との融和をはかり、また特に教会組織の在り方と一般信徒の位置付けの見直しを行った。その結果、自国の言語でミサが行われるようになり、今まで神秘のヴェールに閉ざされていた教会組織が明らかにされ、一般信徒にとって教会の在り方がより解り易くなった。

然しながら、システムがより詳細にフラットに解り易くなったからと言って、信徒の信仰心が深まり、神への距離が縮まった訳ではない。現在の教会の在り方の変化は、むしろ、信徒の安易な教会への理解に繋がり、神への尊厳、神への畏敬の念が薄れ、公会議が目指した教会の本質がブレてしまった様で、私は違和感を覚える。或る神父様は教会とは『イエスの使命を受け継ぎ、神と人間との交わりを聖霊により取りなす場所』であり、その原点に返り、「最後の晩餐」であるミサに与かる事が大切だと仰っていた。公会議開催にご尽力なされた教皇ヨハネ23世、この事業を継承されたパウロ6世は現在の教会と一般信徒の姿をどの様にご覧になっていらっしゃるのだろうか。時代が変わり、科学の進歩や社会の変化、又人々の考えや生活習慣が多様化する中、教会がどのように変わり、「天の国へ向かう旅」なのか、それがもしかしたら「地上を旅するあなたの教会」の本当の意味なのかも知れない。

御旨に従い、マリオ神父様に倣い、私も同じ様な処方箋を携え、あなたの教会のツアーに参加したい。

そして “風薫る丘で人々に話された、恵みのみ言葉を私にも聞かせて下さい。”

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「洗礼までの道」2019年11月(K.Sさん)

 

 私の父方の祖父は曹洞宗のお寺の長男でしたが、僧侶になるのが嫌で他家の養子になったそうです。そして私の両親は共に無宗教という家庭で育ちました。そんな私が宗教に関心を持つきっかけは、倉田百三の「出家とその弟子」との出会いだったと思います。そこで親鸞に惹かれ、親鸞を中心に仏教に関する書物に触れる中で、親鸞の浄土真宗が「民衆に寄り添う仏教」だと言う事を知りました。

その後、遠藤周作の小説や随筆からキリスト教に於ける「同伴者イエス」は正に浄土真宗の精神と近似している事を感じました。他方、井上洋治の著作から「ありのままの自分を受け入れて生きる事」の大切さも知りました。生きて行く上で最も大切にするものは何か、これからどのように生きて行けば良いかを模索する日々の中、何か模範になる生き方を求めていました。

 

そんな時期に職場で尊敬できる何人かの友人が、偶然にも揃ってキリスト教信者で、その中の一人のプロテスタントの方に集会や夏の合宿に誘われて顔を出し、聖書に触れる機会が増えました。「人間はちっぽけな存在である事」をすぐに忘れて、傲慢になる自分を常に軌道修正させてくれる存在として「キリスト」を意識するようになりました。「人間キリスト」のぶれない生き方を模範にして行けたら、少しは善き生き方に近づく事ができるのではないかと考えたのです。

 

 結果的に由比ガ浜教会で古川神父様から洗礼を受ける事になったのですが、その理由は実に情けないものです。まず第一に由比ガ浜教会が自宅から一番近い教会であること。第二に遠藤周作氏のようにかなり破天荒な人でも信者でいられるカトリックの方が、どちらかと言うと真面目なプロテスタントより自分には向いているのではないかと考えた事からです。

洗礼前の聖書勉強の折に、パレ神父様から「ミサに与る事によって神様と親しくなりなさい」と言われました。その時はあまりピンと来ませんでしたが、後に関町教会の稲川神父様の「主の晩餐はキリストの愛の記念祭儀である」と言う文言に触れる機会があり、なんとなく腑に落ちる感がありました。

 

周りから「なんちゃってクリスチャンでしょ?」と言われることが多いのですが、これからはもっと「神の子キリスト」に親しんで自力を磨きつつ、他力(自分に手に負えないことは神様にお任せする)をこそ大切にして行きたいと思っています。

言葉が軽視され人々に心のゆとりが失くなりつつある現代にこそ、キリストの教えである「愛と平和」が広く浸透して行って欲しいと願うこの頃です。

 

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「『信仰』とは何か」2019年10月(T.Tさん)

 私は生後二カ月ほどして東京の神田教会で洗礼を受けました(神田教会受洗者名簿による)。物心のついた頃には、文京区目白の椿山荘近くに住んでいたため、日曜日には祖母に連れられて関口教会、東京カテドラルに行きました。学齢期になり、九段の男子、小、中、高校一貫教育をおこなう、フランスの男子修道会マリア会の運営する小学校に入学しました。

太平洋戦争も末期になると東京への空襲が激しくなったため、私は一人縁故疎開として(どのような縁故があったのか分かりませんが)長野県松本市の松本城近くの松本教会に預けられました、小学二年生の時です。

松本で終戦を迎え、東京に戻りました、自宅は中野に移転しておりました。学校も元の九段の小学校です、学友との再会が大変嬉しかったことを今でも覚えています。学校には聖堂があり、帰りにはいつも聖堂に立ち寄りました。又、ポケットにはいつもロザリオを入れており、通学の電車の中ではポケットに手を入れロザリオを握っていました。家が中野であったことから、今度の所属教会は杉並にある高円寺教会でした。教会の同学年の友達とは野球などをして遊んだものです。小学校からトコロテン式に中学生となり、相変わらず九段への通学です。

中学生になると学科に宗教の科目が入ってきます。宗教を担当する先生はマリア会の修道士の先生です。旧約聖書の創世記や出エジプト記の話は大変興味深く、面白く私たちは皆真剣に聴き入っていたものです。学校には宗教の先生だけではなく、フランス語や英語などもマリア会の修道士の先生がたくさんいましたし、担任の先生も修道士の先生でした。中学生からそのまま高校生になると自然に学校帰りの聖堂通いもしなくなり、又、高円寺教会からも離れていきました。

大学を卒業し社会人となった一年目に海外、ドイツ事務所への転勤を命じられ、爾来、結婚後も含め二十年近くのドイツでの生活が続きました。その間に家族はドイツの教会で洗礼を受けました。ドイツに支部のある日本の女子修道会のシスターの導きによるものです。私は会社の仕事にかまけ、家族を顧みることも少なく、教会へも年に数回家族と共に行くだけ、という生活を続けておりました。日本に帰国し鎌倉に居を構え、由比ガ浜教会の信徒になりました。

会社生活を引退し自分の時間を持てるようになって、私は初めて「信仰」とは何かを考えるようになりました、それまで私は自分がキリスト教を信仰している者である、などとの意識を持ったことなどは全くありませんでしたから。

物心がついてから、私が過ごしてきた小さな世界はキリスト教の世界でした。西欧は、東欧もそうですが、どの国、どの街でも生活の中心にいくつもの教会があります、その世界はキリスト教が人々の日常の生活の中に完全に溶け込んでいる世界です、しかし、そこに住む人々は「私はキリスト教徒である、キリスト教を信仰している」という明確な意識を持って生活しているのでしょうか。 「信仰とは何か」という疑問の回答を見つけるために、私は宗教に関する本を、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、など手あたり次第に読みました。「信仰」の定義は「神に対する信」です、神を信じることです。神に対する「信」、信仰の本質をどのように捉えるかはさまざまな立場があるでしょう。その人の信じる「意志」なのか、神を信じることにより心の安らぎを得る神への「依存感情」によるのか、此岸、彼岸の世界での幸福を願う「幸福主義」か、それとも、真理の探究を求める「知性」によるものなのか。「信じる」ことは「知る」ことの一つの在り方であり、「知る」ことの前提としての役割を果たしていることは確かなことです。私たちが日常生活を送るなかでも、人間関係を成りたたせているものは「信」なのです。他の人の言明をすべて疑い否定していて人間関係が成りたつでしょうか。相手を信じて深く付き合うことによって初めて相手の真の姿が見えてきます。それによって相手の真の姿を「知る」ことができ、その姿を理解し判断することができるのです。

「信仰」、宗教的「信」も同じです。神を信じることによって神を「知る」ことができるのです、神の真の姿を知り理解することができるのです、「理性」のはたらきに助けられて知り、理解することができるのです。神に対する「信」、信仰の本質をどのような立場から捉えようとも、究極的には信仰の本質は神を知り、かつ理解することなのです。

信仰とは神に対する「信」です。しかし、その「信」の内容を一つの言葉に限って表現することは難しいことです。神に対する「信」、信仰は人、一人ひとりの心の中にあるものなのですから、そして心の中に秘められたその信仰の実践は、その人の信仰に即した生活態度なのですから。パウロの言っている次の言葉がそれを端的に言い表しているのではないでしょうか、「信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」

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「谷戸の暮らし」2019年9月(S.Sさん)

 私の曾祖父の生まれた長崎の五島の住所字名(あざな)が真窄でそのへんが名字の由来かとも思います。

人生山あり谷ありといい、私の時の流れはいよいよ終盤。谷戸を毎朝散策しながら自分の歩いて来た道を時折振り返ります。樹齢百年を超し大地に根を張りどっしりとした山桜は、私の筋金入りとはとても言えない、環境や社会に感化され、迎合した生き方を思い起こさせ、見るたびに存在に圧倒されます。

生まれて高校を卒業するまで福岡県の小倉教会に属していました。当時は信徒も多く、とても元気な教会でした。小さいころから侍者会、要理と土日は大体教会でした。復活や降誕の際はまるでお祭りのよう。夏休みは学連で名古屋、青森、札幌の大会などにも行きました。カトリック信徒のコミュニティーどっぷりでした。

父方の祖父のルーツは江戸時代末期のいわゆる潜伏キリシタンと思われます。明治維新になっても異教徒とみなされ住みにくく、新天地を求めて祖父の一族を含めたくさんのカトリック信徒が長崎の五島列島から北九州の新田原地区(行橋市)へ移住してきました。大正末期、北海道のトラピスト修道院の分院ができたころで、温暖な果樹の産地のいい所だと出身修道士の口コミがあったようです。信徒は教会や病院も建てました。

結婚後30、40代は企業戦士の環境にどっぷり。勤務先の都合で東京に移り、一応籍は最寄りの築地教会に移しましたが、世俗の荒波にもまれることになります。新鮮な幻惑でもありましたがキリスト教精神とはほど遠い社会でした。住所も転々、仕事で海外に出ずっぱり等、教会からすっかり遠のいてしまいました。

一方でもう一つの社会環境がありました。それはお寺の檀家としての鎌倉の生活環境でした。不在がちな私のため妻の実家(寺分)で子育てのお世話になることが多く、曾祖母の主導で宮参り、お食い初め、七五三、彼岸、お盆法要など四季おりおりの仏教ならではの日本人の風習や生活感に慣れ親しんだ気がします。曾祖父の葬儀や冠婚葬祭も村の長老、親しい僧侶にお世話になりました。息子たちは大おばあちゃんと仏壇で般若信教を唱えていたそうです。キリスト教に近づくことなく巣立っていきました。

そんな折、パレ師が由比ガ浜にいることを知りおよそ20年振り(1995年)に夫婦で訪ねました。教会から離れた私たちを再び温かく迎え入れてくれました。われわれを回心させた恩人です。あれから24年。定年後はあれもやりたいこれもと計画がありました。でも病気などでほとんどダメになりました。

山あり谷ありの人生ですが谷のまま終わりそうなこの頃です。でもあっけなく神様に召されたパレさん、ぜひあちらで会えるよう踏ん張りたいです。

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「由比ガ浜教会と共に」2019年8月(J.Yさん)

 日曜日に教会のミサにあずかる信徒の中で、自分は一番年寄りなのかなと漠然と思う今日この頃ですが、今から40年前、池田神父様の時代(1973~1084)、私はIさんの御父上と財務委員を数年に亘りしていた時、池田神父様から“あなたはこの教会で一番古い信者らしいよ”と仰しゃられ驚きました。信徒原簿や父親の育児日記を調べると、1931年一才の時、ラリユー師(ジョリー師の2代前)により洗礼を受けていた事が分かりました。 由比ガ浜教会誕生106年の内88年をこの教会で過ごさせていただきました。母、妻、子供、孫、曾孫(?)の受洗、父母、弟の見送り、全てこの教会にお世話になりました。 ジョリー師(1932~1936)には、リヨネーズ出身の祖母、伯母の材木座の家で幼少の頃よくお目に掛ったのを憶えております。現在のマリオ・バラーロ神父様は、初代ジロディアス師から数えて32代目の神父様のはずです。私のこれまでの人生、常にカトリックを意識していたように思われます。大学時代はカト研(カトリック研究会)に属し聖歌を歌ったり、上智大学に遠征してロゲンドルフ師やボッシュ師のお話を伺ったりしていました。幼年、青年、壮年、老年期を、数多くの神父様と神様の御加護により、今日まで無事に過ごさせて戴けたことに、大いなる感謝を捧げなければと思います。 現在私は青年時代の教会の旧友らと作ったコーラスグループ(レコ・シャルマン)に最高の師を頂き練習に励み、また同じ仲間らと始めた社交ダンスを20年に亘り続けて、迫りくる老衰と必死で戦っております。 神に感謝

 

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「鎌倉から鎌倉へ」2019年7月(Y.Tさん)

 

 鎌倉には、昭和24年に空襲で焼け野原となった東京九段(靖国神社の横)から引っ越してきた。当時、若宮大路は下馬から海までは細い道で、基督教団ハリス記念鎌倉教会高田牧師の5人姉兄弟や近所の子供達の遊び場で、小学校時代はハリス教会に通った。小学6年の時英国に引っ越したが、途上バチカンを訪問し、サン・ピエトロ大聖堂の異様さに圧倒された記憶がある。

 英国で最後にいた宿舎学校では、毎朝英国教会の礼拝、日曜は近くのLowchurch(プロテスタント風)、稀にRomseyカテドラル(カトリック風のHigh church)に行った。当時英国は、階級差別が厳しかったが、カトリック教徒の学生に対する差別も目の当たりにした。当然、地球の果てから来た日本人も大変な思いをし、帰国時羽田空港に降りてくるとき、夕日に輝く富士山に涙が止まらなかった。

 栄光学園に編入し、終戦を人間魚雷の中で迎えた大木神父、ハンガリー動乱を命辛々亡命したネメシュ神父、その他強烈な存在感を持つ先生方に出会い、高2の時受洗した。その頃この教会は大町教会と呼ばれ、コロンバン会スカリー神父とスイーニ神父とにラテン語で侍者を務めた。

 大学に入り、駒場のザビエル学生寮に2年、その後信濃町に住み、安田講堂事件は真生会館の守衛室のテレビで見た。左翼や右翼等様々な人々との接点にいたが、関連した日本カトリック学生連盟の解体と「1970年被爆25周年教皇広島招聘」を企てて失敗し、メンタルに落込み学問に沈潜した。

 バリケード封鎖内の大学院では存分自由に研究できた。権威に囚われなかったので、真実が見えて国内主流の学説の誤りを二つ指摘した。が、それで指導教授により国外に追放された。拾われた先は、米国ボストン近郊で1976年から13年強マサチュ-セッツ工科大学(MIT)で、バイオテクノロジー開発集団で存分働いた。帰国時は、新規技術の海外からの導入者であった。何が幸いするか判らない。この地域は、ユダヤ教とカトリックが色濃い。最初はベトナム敗戦でニヒリズムが蔓延していたが、北アイルランド戦争のカトリック陣営の資金集約拠点でもあった。カトリック関係の報道も多く、革命の神学、死海文書発掘の影響、バチカンのスキャンダル、教皇の政治活躍、バチカン教皇ミサ実況中継等が思い出される。映画「スポットライト」もこの地で、その余波で現在は教会が半減している。

 1990年帰国後、研究所や大学を転々とし、2000年代終わり失業と親の介護で鎌倉に帰って来た。二度鎌倉を離れて戻った事になるが、一度目は高度成長、二度目はバブル崩壊と、その都度世界は変わった。この半世紀の間、世界人口は倍増、ソ連邦が崩壊、コンピューターが生活様式を激変させ、ライフサイエンスが人間の生物としての理解を変え、宇宙観も大きく変わった(例えば「科学者はなぜ神を信じるか-コペルニクスからホーキングまで」三田一郎著/BlueBacks B2061講談社)。

 カトリック教会も大きく大衆化に舵取り、ヒトの多様性を認めると共に、アフリカ、移民などの弱者救済における存在感も増している。特に日本のカトリック教会は、かつて脱政治で静かに潜む教会であったが、1970年頃から徐々に社会にメッセージを発する教会を模索し、小勢力にもかかわらず、移民や貧困家庭や被災者に心と手を差し伸べる姿に一時注目された。かつて、浜尾枢機卿がアジアの立場を代弁して頑張って来たことにも世界は注目していた。

 しかし隔年毎、外国に滞在して日本の社会全体が人類に差し迫った諸問題に、非常に無関心であると危惧している。大学や情報解析機関の能力が先進諸国の中でも弱体で、政治官僚機構の隠蔽体質と報道陣の忖度体質によって「見ざる聞かざる言わざる」の国だからである。しかし日本カトリックの貢献は、強く望まれている。自分なりにも何か発信しようとの今日この頃である。

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「神様との出会い」2019年6月(M.Tさん)

 キリスト教とは何のゆかりもない環境に育った私は、カトリックの幼稚園に勤めさせて頂き、初めてキリスト教に触れることになりました。キリスト教を学ぶうちに公共要理の勉強になりました。いつの間にか素直にも洗礼を望むようになりました。親から今の目先のことではなく、結婚してからも信仰が守れるのならばと言われ許しを得ました。信者になりミサに与るようになり、家族でいらしている姿に憧れたものでした。神の摂理でしょうか。たまたま鎌倉の友人宅に遊びに伺った際、友人は結婚を間近に控えご機嫌で、私が洗礼を受けたことを知って紹介されたのが、当教会の主人でした。彼の強引な意向で大町教会(由比ガ浜)で挙式して頂き、皆様にお世話になりながら披露宴を信徒会館でさせて頂きました。当時の教会はミッションスクール卒やご立派な方々ばかりで、よそ者の私には近寄り難かったなと思いだします。男の子四人に恵まれ日曜学校で世話になり、又私も先生をさせて頂きました。生徒が80人余り大勢でしたので、母の会を作り、日曜学校の行事を支える活動をしたり夏の合宿など、家族ぐるみで大変楽しい思い出となっています。

教区の日曜学校の先生の勉強会がよくカトリックセンターで開催されて参加したものです。そのご縁で教区カテキスタ会の仲間に入れて頂き、現在にいたっています。

人生山あり谷あり、色々辛いことも体験いたしましたが、恵みの中で過ごさせて頂きました。唯、主人がパーキンソンを患い、度々転倒、骨折を繰り返しリハビリを続けていました。テレジア病院でリハビリ中に脳梗塞を併発しましたが、担当医は見落としMRIもないためCTでは発見できず、手遅れと共に悪化していまいました。初めテレジア病院に神経内科のパーキンソンの名医がいらっしゃるとのことでしたが、丁度その折に新しくリハビリ病院と変わってしまいました。6ケ月の期間が過ぎると転院させられ、口からは何も食べられず、飲めず、言葉も交わせず、痰の吸引やら本人も辛いでしょうし、院内感染もし3ケ月経つと、又転院、厄介な病人として新しい病院に受け入れてもらい苦しい日々が続きました。

“苦しみは、忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む”パウロの言葉に勇気づけられましたが希望とは?解りませんでした。亡くなる2~3日前大雪のため車の運転は諦めバス停に立ち、目の前の不動産屋の広告に目が留まりました。教会の近くで有り、私一人が住むにふさわしい物件でした。何とTさんの家の離れでした。その時ほど、何時もイエス様は私と共にいて下さり、愛して下さっているのだと気づきました。望みである衣食住の住を与えて下さり、希望をかなえて下さったと心からの感謝でした。「神のはからいは限りなく生涯わたしはその中に生きる。」これから先何が待っているかわかりませんが、皆様にお世話になりながら前向きに明るく、楽しく過ごしたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

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「どうしてここに?」2019年5月(S.Tさん)

 80年近く生きてくると、この「道しるべ」の紙面にはとても書き切れない賞罰織りなしての人生が・・・・。

今は、いつキリストに出会い、ここにこうして居るのかを記してみようと思う。

 振り返ってみるとその意味もわからぬまま、疎開先の片田舎の幼稚園で「イエス」や「主」という言葉を確かに聞いていた。その後、古都京都で敗戦国の子女の教育を担って、米国セントルイスから派遣された4人の修道女によって創設された草創期のミッションスクールに私は通うことになった。日本人第一号の志願者だった担任のシスターに公教要理を習った。彼女の出身校の仏教系の大学に入ったのに、高校時代の友人に誘われて、学連(京都カトリック学生連盟、当時京都のカトリックの大学生達がドミニコ修道院の地下室に集まっていた)に参加するようになった。丁度世は安保闘争から学園紛争、教会は第二バチカン公会議の新しい波のうねりの中、その学連で戦闘的な血気盛んなキリストに燃える維新の志士達のような人達と出会った。そしてミサ、聖書講座、黙想会、全国大会に向けての親睦会や合宿、ゼノ牧場支援や九条でのセッツルメント活動等を通して大きな刺激を受けた。「キリストを運ぶ」「キリストを生きる」「キリストの建設」等に燃えて、私は受洗した。

 その翌年から、何も解らず鹿ヶ谷の母校の教壇に立つことになった。25歳の誕生日前、学連時代の仲間であるN(委員長だった彼に密かに憧れてはいたが一番静かでグズグズしていた)から「君を幸せにはできない」という未定稿の原稿用紙が届いた。親譲りの無鉄砲か若気の至りか「私が幸せにする」と返信した一年後から、私の細胞奮闘期が始まった。Nはその後も18年の大学生生活を飄々と送り、さながら高等遊民だった。その間、母校の安月給で4人(子供3人・夫1人)を扶養家族に、やっとNが「ボウズに説教」(名古屋の某大学神学科初の俗人教師)時代を迎えた。

 私はその名古屋で「友の会」を知った。「生活しつつ、思想しつつ、祈りつつ」に魅せられて、4人の子供達と衣食住・エコ生活・家事家計を一緒に学び働いた。それは賑やかで旺盛な明け暮れだった。緑に包まれた大学の学園住宅での日々は、休日の庭掃除、季節ごとの行事の集い、音楽やスポーツ等、お互いの協力や助け合いに満ちていた。半世紀前に全員保育園育ちを理想としていた私は名古屋生まれの末子も保育園に入れバイトに奔走した。周りの支えの中で子供達は育まれ、Nの生きる姿を見て成長していったように思う。京都、名古屋時代を経て、平成18年晩秋、大正時代からの趣きのあるNの実家を建て替え、Nの大学時代からの恩師、私の養母、私と長女の4人で鎌倉に転居した。肝心のNは京都で単身赴任。恩師と養母を見送るまでの間、月の半分は老人介護、残りは京都通いをし、放送大学の学生でもあったので京都で再び学ぶ機会を得て若い日の二人の思い出の地に戻れた日々はかけがえのない歳月だった。

 結局Nは帰郷せぬまま、現役中に京都で72年の生涯を閉じた。あの日から目標や生き甲斐を見失った私は、床に就く日が多くなり、どう生きていけばいいのか煩悶した。今、遺影の横に、「毒舌も議論も楽し先生の御顔(おもて)にしるき愛情(こころ)見ゆれば」「これもまた殉教(マルチル)なれや先生の身を大学に捧げられしは」「神信(う)くる先生の心今ぞ知る徒(あだ)なる延命(いのち)拒まれしとは」。同僚からの追悼歌や弔辞を読み返すうち、あまりにも大きな賜物に気付き、「ありがとう」「ごめんなさい」を繰り返しながら、6年目の春、やっと目眩と嘔吐の日々から立ち直れ、プチ就労を得、「仕合わせ」の意味をも考え始めた。そして今この笹目に信仰深き友(きっとNの執り成しにより主から与えられた方々)を迎えて、シェアハウスでの助け合いながらの生活がスタートした。

 パウロのようにキリストのみ跡を生き抜こうとしたN、逝ってなお私を導き続けてくれている。疑問や反問、素直な気持ちを全てぶつけて生き生きと生活できたこと、難しい時代を其々苦悩しつつも、子供達が揃って父親の跡をしっかり追う者達になったことに感謝の日々を送っている。

 

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「み言葉と共に」2019年4月(H.Kさん)

 「あなたは、世の光になりなさい」私が初めて出会った聖書のことばでした。

娘がたまたま入園したカトリック幼稚園の入園式の時頂いた、通園手帳の第1ページに書かれていました。園長でもある神父様が、一人ひとりに書いてくださったと聞きました。

初めて触れた聖書のことばは、40年以上も前のことながら今も私から離れることはありません。みことばと出会って5年後娘が小学校3年生の時、校長先生でいらした神父様から「お嬢さんは、神様のこどもになることを望んでいます。お母さまも一緒に準備しますか?」と尋ねられました。あのみ言葉がすぐに心に浮かんできました。私は、迷うことなく「はい、お願いいたします」とお答えしていました。それから1年間、娘は木村神父様、私は、池田神父様から「おしえ」受けて準備を始めました。

海綿のように吸い込んでいく子供の心の柔らかさに驚きながら私にとりましても経験のない新鮮な日々でした。

受洗の喜びのうちにありながらも時には、受洗前とは少し違う感情がわいたり、あんなに近かった教会も少し遠くに感じることもありましたが、「あなたは、世の光になりなさい」というみ言葉は、いつも私とともにいてくださったと思います。悩む私に池田神父様は、毎月のように訪問してくださり何気ない雑談をして導いてくださいました。

もっとイエス様に近くいたいと思うようになった時、真生会館の「学びあい3年間」という講座に参加しました。偶然教会の大先輩もいらしていてとても心強く感じたことでした。

ここでの3年の学びは、何十年か昔のことですが、今も昨日のことのように思い出すことのできる大切な「信仰の宝物」となっています。

そろそろ人生の晩節に近づいてきた私ですが、「あなたは世の光となりなさい」というみ言葉は神様からの呼びかけと信じ、暗いところをほんの少しでも明るくすることが出来るように毎日を過ごしたいと思います。   

神に感謝! 

 

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「過越の食事を作ってみて」2019年4月(K.Mさん)

“ イエスは⾔われた。

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の⾷事をしたいと、

わたしは切に願っていた。

⾔っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、

わたしは決して この過越の⾷事をとることはない。」 ”(ルカ22:15)

毎年四旬節になると、食いしん坊の私は「過越の食事」がどんなものか食べてみたくてしかたがありませんでした。今年やっとその夢を「土曜の会」で実現できました。 (レシピはなんとCOOKPADにありましたが実にシンプル。)

     <材料>             <考えた結果>

  • タネを入れないパン風のもの 適宜 ⇒ ⇒ ⇒ 手作りで挑戦

  • 羊肉、鶏肉等の焼いたもの 適宜 ⇒ ⇒ ⇒ やはりラムチョップでしょ。

  • ゆで卵 適宜                                        

  • 塩水、又は酢 適宜 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ パセリをつけて食べる。(結構美味しい。)

  • 苦菜、又は苦味のある野菜かワサビ 適宜 ⇒ ⇒ 調べてパセリ

  • リンゴのシナモン煮 適宜 ⇒⇒「ハロセット」というイスラエル料理がありそれに挑戦。 

   (リンゴ・干しブドウ・クルミ・アーモンドを刻んでぶどうジュースに浸したもの。)

  • ぶどうの飲み物 適宜 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 赤ワインまたはグレープジュース。

ラムチョップはラムの苦手な人も「とても美味しい」という感想で好評でした。

今回の「土曜の会」では、他に「広島風お好み焼き」や「おでん」もあり、皆、しばし四旬節中であることを忘れてしまいました。(ごめんなさい神様。)

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「カトリック教会と私」2019年3月(M.Iさん)

 私の祖父母がイタリアで聖ピオ十世教皇様にお会いし、大変心打たれ、帰国後イエズス会の神父様より受洗。私の母達、兄弟らも次々受洗、結局全員洗礼を授かりました。しかし私が生まれた頃は日本は軍国主義の為、父は受洗に猛反対。私は未信者のまゝ成長しました。戦後、母に連れられ鎌倉の「お山の教会」「大町教会」「雪ノ下教会」と時々教会に行きましたが、受洗すると“大変そう”とだんだん教会から離れていきました。困ったことに清泉女学院で学んでいた頃は反抗期、シスターたちに何かと反抗抵抗していました。しかし、祖母が亡くなる少し前、ベットの中から「おコンタツ、おコンタツ」と叫び、叔母がロザリオを渡すと、ニコッと安らかな顔になったのに感激したこともあります。「何だろう、この力は」と。それから、いつの間にか三人の男の子の母となった頃「あさま山荘事件」がありました。その時「子供を育てるのって大変‼ そうだ、男の子は神父様に導いて頂こう‼」 と勝手に決めて教会に行くようになりました。いろいろお話を伺い、学び「あーこれだ。祖母や母達が求めていた平安とは」と感動、受洗しました。何か困ったことがあると今までは勝手に「イエズス様!」とすがりついていましたが、洗礼のお恵みを頂いてイエズス様を感じた気がしました。今まで何かつっぱっていたものがファーッととれた感じで涙が止まりませんでした。シスターも私の受洗にびっくりされ、お祝いの長い長いお手紙を下さいました。私にとってカトリック教会しか考えられなかったのは祖父母の祈り、母たちが与えてくれた環境等々決して離れることは出来なかったのだナ、と思います。子供らも中学に入って全員受洗。あとは神様にお委せ‼と喜びで一杯です(今、彼らは教会に行ってません。困ったものです。)しかし、きっと神様は時が来たら導いてくださると信じお委せしています。「どうぞ守り導いてください」と。そうそう、母や叔母達とバチカンの地下墓地で聖ピオ十世教皇様にお会いした時は感激でした。「ピオ様、どうぞお守りください」

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「昭和ひと桁の幼児洗礼者として、神の恵みの数々を…」2019年2月(K.Kさん

 東京都麹町区(現千代田区)麹町に生れ、生後三ヶ月で、麹町教会で洗礼を受けております。記憶に残っている神父様の御名前は、深堀とくえもん師、荒井勝三郎師、塚本昇次師です。深堀師と荒井師は、後に司教様になられました。塚本師は、徴兵され南方で終戦を迎えたと聞いております。生家のすぐ裏に上智大学があり、こちらのヘルマン・ホイヴェルス師と大泉孝師の公教要理にも、子供時代参加致しました。九段の白百合学園小学校(当時は国民学校)一年生で初聖体を受け、それと共に、告解の儀式(現在は赦しの秘跡)を受けました。告解の前に「究明する」という言葉を教えられ、自分の内部の悪、つまり犯した罪と向き合いました。そしてそれを言葉にまとめ、告解室で……。最後に神父から「ご安心なさい」という言葉を聞くまでの七歳児としての緊張感は、今でも忘れられません。と同時に赦されたという気持ちは素晴らしいものでした。後に文学に傾倒し、自分の内部を凝視して、それを表現することの基本、その第一歩は、あの時の告解室にあったのではないか、と思うことがあります。 第二バチカン公会議以前の時代で、日曜日のミサで聖体拝領をするに当り、午前十二時から食事を取ってはならないと母に言われ、それを守って教会に行き、当時痩せていた私は、ミサ中に何度も貧血を起こしました。聖堂の出口の石の階段に座って、外の空気を吸っていると次第に気分の悪さや吐き気が治まり、また聖堂に戻り、何とか聖体拝領の列に並んだのでした。 
その年の十二月に戦争が始まり、四年生の一学期の六月に茨城県稲敷郡瑞穂村(現河内市)に疎開し源生田村小学校に通いました。利根川沿いの交通の便もない小村で、教会どころか医者もいない村でしたが、川で魚も獲れ、カボチャやイモなど、比較的食料に恵まれている所でした。  
昭和二十年五月の山の手大空襲で、麴町教会、九段の白百合学園、私の生家は全て灰となりました。戦後まもなく、千葉県市川市の次姉の嫁ぎ先に身を寄せて、白百合学園に戻りました。食糧事情も絡んで、両親はまだ疎開先から腰を上げずにいました。そんな折、懐かしい塚本神父様にお会いすることが出来ました。東京に数多くあった教会は焼失または強制疎開で無くなっていましたが、多くの信者さんはミサを挙げて下さる教会を求めていました。そんな時に神の恵みがありました。それは現在のカトリック洗足教会の前身です。終戦の翌年、西小山教会に所属していた岩瀬家が、南千束の邸宅の一部を教会に提供され、塚本神父を主任司祭として迎えたのです。母と、岩瀬夫人は教会を通じての友人でした。小学校六年になっていた私は、土曜の午後になると中学二年生の五姉と一緒に、市川市から南千束の岩瀬家まで出かけました。岩瀬夫人はいつも快く泊めて下さり、お陰で日曜のミサに参加することが出来ました。塚本神父様との再会も心躍る瞬間でした。その畳の部屋のミサは他の信者さんにとっても喜びに溢れた時間でした。私はその後鎌倉に住むようになるまで、一年ほど岩瀬家に通いました。戦後の混乱期、神の恩寵に支えられていた思い出です。父はその後、疎開地で脳溢血にて倒れ、半身不随になりました。母は、介護に明け暮れながらもいつもコンタツ(ロザリオ)を手にして祈っていました。父は七年後の年の暮に亡くなりました。その年の春に知り合った男性と、四年後に結婚いたしました。現在の主人です。どちらも片親の子供で、種々の共通点がありました。
時が飛びますが、中年になった私は、市の健康診断で早期の肺がんが発見されました。がん病棟の病室は四人部屋で、隣のベッドとの仕切りはカーテン一枚でした。手術を三日後にした午後、横になっていた私の耳に「神父さま、よくいらして……」というお声が聞えました。体を起しさらに耳を澄ますと、隣の見舞客は外国人神父様のようでした。私は無礼も構わず、カーテンの端を上げ、「実は、私はカトリック由比ガ浜教会の信者で」と挨拶をさせて頂きました。神父様はカトリック高輪教会の主任司祭でした。次の日、二人分のご聖体を運んで来て下さった神父様の手によって、私は聖体拝領を受けることが出来ました。手術は成功し今日に至っております。

神に感謝。

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「洗礼への道」2018年1月(K.Iさん)

 夕暮れ時、主人の祭壇で手を合わせ祈っている時、ふと「信者になって何年たつのかな」と思った時がありました。

そんな時、神父さまが、片瀬教会から移動されてこられると聞き、久しぶりに片瀬教会の名前が頭をよぎりました。私を信者に導いて下さった方が片瀬教会の方です。N.Eさんその方とは子供が幼稚園が一緒で小学校も一緒でした。カトリック系の学校でしたが、私は、キリスト教の事は何も分からず、学校行事に参加する程度でした。

 娘が1年生の時、校長さまから「1年生のN.Cさん 2年生のN.Mさんのお弁当を作って頂けませんか」と言われ意味が分からず、話しを聞くと「ご主人が悪い病気で5人の子供がおられ、今が大変な時で助けあっていきたいので協力して欲しい」との事でした。言われた通り娘に毎日3個のお弁当を持たせて学校に出しました。1年か1年半続いたと思います。気になり一度、主人と病院に伺った事があります。窓ぎわでご主人はベットに座り、側でEさんはご主人の背中をさすっておられました。重い病気で死と向き合っておられると聞いていたのに、二人は穏やかに笑顔がありEさんの背中にある手が輝いて見えました。

 私は、まだ、30歳になった所でびっくりしました。「悲しくないのかな 死は怖くないのかな 」とか思った事をよく覚えております。この数日後にご主人は亡くなりました。

教会へ初めて行ったのが片瀬教会 Nさんの葬儀でした。信仰の強さを感じ、彼女の生き方を見て自分の今までの生き方が甘く、自分中心だった事に気がつきました。両親の保護のもと大切に育てられて、また主人からは愛されて幸せ一杯でした。

 そんな時、娘も何か感じていたのか学校で宗教を勉強して「信者になりたい」と言いだし 又校長さまから「お母様も一緒に」と言われ 由比ガ浜教会に出向く様になり子供は日曜学校 私は母の会などを手伝い 1984年4月21日に洗礼を受けました もちろん 代母は、N.Eさんでした。

 あれから、何年も経ち、今度は、私が主人を亡くし信者でありながら、強くなく意気地なく、今でも主人恋しいと思っている私です。片瀬教会の御縁に感謝し、N.Eさんから学んだ事や、主人が残した言葉を大切に、主人の傍に行くまで生きていきたいと思います。

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「私の信仰への道」2018年12月(Y.Mさん)


 私は、1961年2月18日、外交官の父と元徳川家の母文子の間で、長女として東京で生まれました。生後10カ月でワシントンに2年、サウジアラビアに2年滞在し、旅行でエルサレムやベツレヘムへ行きました。特にベツレヘムのキリスト生誕の記念碑に幼い足で立った時はショックを受けました。また、年に一度しか雨が降らないジェッダで、アラブ人の男の子二人を従えて走っていた毎日でした。

 ところが、帰国後ハリス幼稚園でいじめに遭い暗転。近くの付属小学校に入り、テレビを見ながらおいしいお菓子を食べ続けて太りましたが、6年生でスイスのジュネーヴに越して、シンプルな食事から、食べる有難さを悟り太らなくなりました。学校では、ラテン語(英語は成績の良くないクラスで学ぶ)を学び、帰国後、湘南学園高校に入り、生徒会長になりましたが、拒食症と痴漢で落ち込みました。
 明治学院大学に入学して喜んでいた1年の時、突然「出てけ」という、世にも恐ろしい響き声を聞いて死と神を味わい、上智大学在学中、精神病を患い3ヶ月入院しました。
卒業後もすぐ結婚して、今度は中絶と自殺未遂を数回、そして離婚と不幸を経験しましたが、出産、子育ての喜びも味わいました。
 1980年から「エホバの証人」で、キリスト教の知識を得てかすかに光を浴び、9年後、十字架を信じない宗教と知り、プロテスタントに入る方の勇気に感動し、遂に私も2000年の復活祭の時、当時この教会の古川神父様から洗礼を受け、私のキリスト教信仰への道が開かれました。

 

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「わが心、喜びに満ち溢れ、主を待ち望む」2018年11月(Y.Kさん)

 本年10月、81才になり、人生の終着駅が近くなりました。心静かに来し方を振り返っております。沢山の恵みと出会いを頂きました。   一番の恵みは、神様と出会ったことです。  少し詳しく述べさせていただきます。目に浮かぶのは、終戦直後の食料難。終戦後二年半経っても、南方に派遣されていた父が帰国せず、皆、父は亡くなっていると思っていました。

留守宅は、長姉 (19才で父との再会を望みつつ、栄養失調で帰天)、次姉(先天的弱視で目が不自由。後年筝曲の先生)、私、2才下の弟。小二の私は、母と共に農家を訪ね、物々交換で僅かな芋、野菜を入手する日々。 その内、世の中には、心優しい人、また鬼のような人がいることを体感。母は、その時の過労で結核になり、さらに薬の影響で難聴になりました。

当時、補聴器はありません。会話は、大声か筆談となりました。

 二年後、漸く父が帰国。私は、思いがけず、カトリックの学校に入学。その入試の時、初めてシスターの姿を見て、「あのカラスのような服装の人は何をする人?」と尋ねた事を思い出します。このような言葉を吐いた私は、ここで、キリスト様と出会いました! 

学校生活を満喫しましたが、いつも母や姉の事を思うと、自分だけ幸せになってはいけない、という思いが胸をよぎっていました。58才で両脚の手術を自身が受けた時、何だか苦しみを分けあったようで、ほっとしました。

 「人は、何の為に生きるのか?」「どうしてこの世に苦しみや辛い事があるのか」と悩みました。その後、シスターに勧められて、何回か黙想会に参加し、キリスト様について色々な疑問をイエズス会の司祭に質問したりして・・・。全てを分かった訳ではありませんが、最終的に、神様を信じ、キリストのお教えに従うことが一番心が安らぐという結論に至りました。

明治生まれで、仏教徒の厳格な父に、恐る恐る「洗礼を受けてクリスチャンになりたい」と告げたところ「それは良いことだ。これからの人生を歩む為にバックボーンが必要だ。但し、憧れでなるのは駄目。一生その信仰を守る覚悟があるのなら」と言われ、意外で嬉しく思いました。そして、高二のご公現の祝日に父と弟も出席し、大勢のシスターの祈りと聖歌の中、受洗の恵みを受けました。デオ、グラチアス‼ ご指導下さったシスターが、祝いの言葉と共に「神様の子供になったのだから、クリスチャンは、いつも神様と一緒と心がけて笑顔で過ごすのよ。」と言ってくださいました。

 大学生になり、その頃、活動が盛んだった全国カトリック学生連盟横浜教区支部の一員となりました。毎週、司教館に男女5人が集い、厳しくも懐の深い荒井司教様、宣教熱溢れる若きカンペンハウド神父様のもとで、ご指導を受けました。聖書を「読む。味わう。実行する。」というテーマで、リーフレットを作り、教区内外の教会に届け、同時に高校生と研修し、合宿や黙想会を通してキリスト者として生きるという柱をこの時に育てて頂いたように思います。  その後、母校の教師になり、充実した楽しい日々を過ごし、多くのすばらしい生徒、受洗した子供達に恵まれました。今でも続く交際は、大きな慰めです。  結婚し、子育て、8回の転勤生活と、めまぐるしい日々を過ごし、鎌倉に戻りました。

 嬉しい事、辛い事、悲しい事を沢山経験致しました。物事が順調に進めば、ただ感謝です。悩んだり、困った事が起きたら、共に居て下さる神様(ご聖体に座すキリスト様)と会話をして、全ては、神様からのものとして丸投げ(?)して、お助けを祈ります。全て、神様のおはからいにお任せすると、気持ちが平らかになり、どんな結果でも受け止める力を頂きます。

 2年前、突然の病で、天国の入り口迄辿り着いたのですが、何故か戻って参りました。当初は大分戸惑いましたが、“生かされている事”を実感し、お招きをいただく迄、幼子のようにありのままで、神様への委ねと感謝の中に、日々を重ねてまいりたいと存じております。 

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「霊名のルーツ」2018年10月(M.Tさん)

 皆さんの霊名の由来は? 好きな聖人? 誕生日の聖人? 親や代父母が? 
私は「洗礼名がマリア」、そして「堅信名がクララ」。これは代々長崎の祖母(明治)、母(大正)、そして私(昭和)へと受け継がれた霊名です。まあ、こういうケースもまれにあることでしょう。だから、私の霊名は、この世に誕生する前から、既に決まっていたことになります。ただ、8月11日「聖クララの日」に陣痛がくるとは、母も想定外の驚きだったことでしょう。ならば洗礼名を「クララ」にしても良かったのでは? とも思いますが。とにかく、この日私の「堅信名クララ」が、母の中で確固たるものになりました。先日、長崎の浦上教会の広報誌に、興味深い記事がありましたので、ちょっとご紹介します。

 

『8月11日は毎年クララ祭が行われ、ミサが捧げられている。歴史をさかのぼれば、

1614年、 浦上のただ一つの教会だった「サンタ・クララ教会」が、禁教令で壊され、浦上は殉教から潜伏 の時代へ移った。しかし、いつの頃からかは分からないが、おどろくことに、この教会跡で、潜 伏しているはずの浦上キリシタンが「盆踊り」を始めたのだ。 『沖に見ゆるはパッパの舟よ、 丸にやの字の帆が見える』 「丸にやの字」はマリア様のこと。被昇天のお祝いを前に、ここ 「教会跡」で「潜伏の終わり」を聖クララとマリア様に願い祈ったそうだ。聖クララは『もう一人の フランシスコ』と言われている。8月11日は聖クララの帰天日である。“クララ”とは「光り輝く」という意味。盆踊りをする先祖たちは、ローマのお頭様が必ず司祭を遣わされることを信じ、聖クララの“光”に強い希望を持って祈り踊ったのだろう。 

(以下略)(浦上教会久志利津男神父)』

この記事から想像するに、私の霊名は浦上教会に由来しており、祖母から始まったものではなく、200年以上前から代々受け継がれたものなのかもしれず、そして盆踊りの輪の中に、うちのご先祖様も? そう思いを馳せると、ちょっとロマンを感じる今日この頃・・・。

皆さんもご自身の信仰のルーツをたどってみては? そしてぜひこの「道しるべ」に投稿してください。 お待ちしています。

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「洗礼を受けて」2018年6月(T.S様の夫人からの寄稿) 

 

 私の夫は6月3日に洗礼を受けました。夫はキリスト教に興味があるとはいえませんでしたが、学生時代から声楽を学んでいたためか、約5年前から合唱団のレコ・シャルマンに熱心に参加するようになりました。その中で合唱団の皆様の暖かさにふれ少しずつお言葉にも親しんできたようです。

しかし、夫は一年前急に内臓に腫瘍が見つかり、今は自宅療養を余儀なくされ、

楽しみだった合唱に参加することもできなくなりました。

そんな折、夫から 「洗礼を受けたい。」 と打ち明けられ、合唱団の指揮をされている先生に相談したところ、先生と合唱団の方々のお計らいもあり、グレゴリオ聖歌による「キリストの聖体の祭日のミサ」の中で、静 一志神父様により洗礼を授けて頂くことができました。

またミサの中で合唱団に加わりアヴェヴェルム・コルプスを唄いました。

服薬で痛みをなんとか和らげて参加した夫は、ミサ中最前列で車椅子に座り、祭壇やキリスト像を眺めていたようでした。帰り際には合唱団の仲間とも話すことができました。

洗礼はとても印象に残ったらしく、感想を聞くと 

「嬉しかった。美しかった。」 と語っていました。

皆様本当にありがとうございました。 

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霊名のルーツ2018-10
洗礼を受けて2018-6
わが心喜びに満ち2018-11
私の信仰への道2018-12
洗礼への道2018-1
昭和ひと桁2019-2
カトリック教会と私2019-3
み言葉と共に2019-4
過越の食事2019-4
どうしてここに?2019-5
神様との出会い2019-6
鎌倉から鎌倉へ2019-7
由比ガ浜教会と共に2019-8
谷戸の暮らし2019-9
『信仰』とは何か2019-10
洗礼までの道2019-11
地上を旅する2019-12
(2)谷戸の暮らし2020-2
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